四天王寺七宮めぐり 伍 五條宮
四天王寺の北東にある五條宮。
北東である丑寅は鬼門にあたり、
四天王寺を守護する社。
でも…四天王寺七宮には、
列せられていないのです。
御祭神は敏達天皇とあり、
上町筋が勝山通と離れる位置、
その銀色に輝く鳥居の下には、
碑石が建てられています。
我国最古の条坊制にもとづく
都ともされる難波宮の五條筋に
あたることでその名を戴きます。
拝殿前には「五條大神」の扁額。
五條宮の創建は、四天王寺建立の
ときに遡るといわれています。
四天王寺の四箇院のうち、
医薬にまつわる施薬院・療病院の
守護神をはじめは祀っていたとか…
医薬祖神の少彦名命がかつての御祭神、
674年より御祭神は敏達天皇に。
本殿の扁額は「敏達天皇宮」。
御祭神の御名ただしくは、
渟中倉太珠敷天皇
(ぬなくらのふとたましきの
すめらみこと)、
もう一柱は息長広姫皇后、
敏達天皇の最初の皇后で、
一男ニ女を出生後、
薨じられています。
北側からの参道にある注連柱、
「治理逢煕運 欽明仰聖帝」。
理りを治め気運に逢いて
欽明帝を聖帝と仰ぐ と
読むのでしょうか…
敏達帝の宮になぜ欽明???
四天王寺七宮をつないだ地図、
"上之宮"だけが少し離れた
位置にあることが分かります。
なぜ"五條宮"でなく"上之宮"
だったのか疑問が湧くのです。
『日本書紀』の敏達紀に、
「天皇、仏法を信(う)けたまはずして、
文史(しるしふみ) を
愛(この)みたまふ」とあります。
これをもって仏教を信じなかったと
する事実とするには、
やや早計過ぎると思われますが…
物部守屋と蘇我馬子との間で
仏教の取り扱いをめぐって
抗争が始まった頃の天皇が、
敏達天皇でした。
息長広姫皇后が薨去された後、
豊御食炊屋姫が皇后となられます、
後の推古天皇です。
こちらの注連柱は、
「皇極開昌運 春風醸大和」
皇極天皇のことなのか??
ますます
皇極天皇のことなのか??
ますます
分からなくなってきました。
聖徳太子と縁深い推古天皇とは、
父が同じとする敏達天皇。
敏達帝と推古帝は夫婦ともに
天皇となられたカップルでした。
敏達天皇は橘氏の祖であるという説、
橘氏の唯一祖霊舎が五條宮…
橘氏の祖とされるのは
県犬養三千代という人物、
敏達天皇の後裔に当たる美奴王の妻、
後に離別し藤原不比等の後妻
となった際に賜ったのが"橘姓"。
橘氏と敏達天皇の関係は、
深いものとは思えません…
ただ…時の流れのなかで、
五條宮は特別な位置を
占めていたことだけは、
確かなようです。
こちらは境内にある相殿社、
あわせて七社が祀られています。
天照皇大神宮、天満宮、八幡大神宮
猿田彦神社に市杵島神社、
サルタヒコカップルも
おられました。
聖徳太子と縁深い推古天皇とは、
父が同じとする敏達天皇。
敏達帝と推古帝は夫婦ともに
天皇となられたカップルでした。
敏達天皇は橘氏の祖であるという説、
橘氏の唯一祖霊舎が五條宮…
橘氏の祖とされるのは
県犬養三千代という人物、
敏達天皇の後裔に当たる美奴王の妻、
後に離別し藤原不比等の後妻
となった際に賜ったのが"橘姓"。
橘氏と敏達天皇の関係は、
深いものとは思えません…
ただ…時の流れのなかで、
五條宮は特別な位置を
占めていたことだけは、
確かなようです。
こちらは境内にある相殿社、
あわせて七社が祀られています。
天照皇大神宮、天満宮、八幡大神宮
猿田彦神社に市杵島神社、
サルタヒコカップルも
おられました。
阿遅鋤高彦根神社に宇賀御魂神社。
アジスキタカヒコネ命は、
国譲神話にも登場する
美青年の神さまといわれ、
スキは「鋤」を連想されたもの、
もともとは鋤を御神体とする
農業神だったようです。
その後 賀茂氏の祖神とか???
敏達帝、推古帝、欽明亭、
皇極帝、聖徳太子、
そして橘氏に賀茂氏。
アジスキタカヒコネ命は、
国譲神話にも登場する
美青年の神さまといわれ、
スキは「鋤」を連想されたもの、
もともとは鋤を御神体とする
農業神だったようです。
その後 賀茂氏の祖神とか???
敏達帝、推古帝、欽明亭、
皇極帝、聖徳太子、
そして橘氏に賀茂氏。