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エリア履中vol.3 文珠山古墳

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百舌鳥古墳群からポツンと 離れたところにある 「 エリア履中 」なのかは、 不明ですが… 名称は「 文殊塚古墳 」、 由来は日本三大文殊の ひとつとして有名な、 堺市西区にある 家原寺 の 寺領であったこと。 一昔前までは、 近所の子どもたちの 遊び場だったそうですが… 今は墳丘はフェンス越しに 眺めることしかできません。 埋葬部の構造や副葬品、 周濠の有無は不明… 円筒埴輪 の採集が 確認されています。 墳丘は戦時中に 防空壕 が造られたとか… 樹木が多いと根が張るし、 葺石がないと 土盛りは流れるし… 保存ってのは、 実に難しいものですね。 近くにある 「 向ヶ丘八幡宮 」 桜が咲く頃、 春季大祭 には ふとん太鼓で 賑やかだそうです。 百済川左岸 の 台地上にあって、 前方部を西に向けた 前方後円墳。 遠くに履中陵を 見下ろす位置。 どんな人物が 埋葬されたのか… 孤高のプリンス ?、 謎に包んでおくのも 一興かもしれません。 「文珠山古墳」 ・前方後円墳 ・墳丘長59.1m、後円部直径36.3m、  前方部幅27.3m、高さ4m ・5世紀 ・堺市西区上野芝向ヶ丘町1丁

エリア履中vol.2 七観音古墳・寺山南山古墳

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「七観音古墳」 履中天皇陵古墳の北側、 大仙公園の南入口にあり、 履中陵の陪塚 と 考えられています。 鉢巻状の壁での保存は、 原形は少し違うそうです。 墳丘全面に サツキ が植えられ、 大きな植木鉢 という人もいます。 1983年の市の調査では、 碧玉製の 琴柱形石製品 が 出土しています。 琴柱形石製品とは、 琴の弦を支える 琴柱に似た石製品なのですが、 用途については不明なのです。 濠の輪郭や堆積層を認めず、 古墳築造当初から 周濠を設けなかった とも… 「七観音古墳」 ・円墳 ・墳丘径32.5m ・5世紀前半 ・堺区堺区旭ヶ丘北町5丁 【世界文化遺産登録候補】 「 寺山南山古墳 」は、 履中天皇陵の外濠に接して 築かれた 長方形の方墳 。 といっても、 看板の奥にあるのは ゲートボール場 。 ただ出土品がスゴい! 墳丘テラスには埴輪列、 家形埴輪 も出土! 屋根は切妻式で、 屋根の部材や柱は 線刻により表現されたもの。 出土の埴輪や須恵器から 5世紀初め頃の築造と判明。 方墳で造り出しがあるのは 珍しいということもあり、 しっかりと整備される予定 。 「寺山南山古墳」 ・方墳 ・長辺 44.7m ・5世紀前半 ・堺市西区上野芝町 1 丁 【世界文化遺産登録候補】 こちらは、お向かいの 平成の森 にある展望台… かつては 「 七観古墳 」がありました。 土砂採取で 1952年に消滅 、 半分が七段の石積み、 残り半分が盛土になっています。 頂上部にあがると… 履中陵こと 石津ヶ浜古墳 の 後円部と西側の濠が望めます。 「終戦間際B29など 大阪周辺を爆撃する米軍機は、 巨大な幾何学模様をした 大山古墳を ターニングポイント の ランドマークとしていた。 そのことを認識していた軍部は、 迎撃のため七観古墳に 高射砲陣地構築 を試みたが、 墳丘に杭を掘っただけでに 終わってしまったようである。 七観古墳の高射砲陣地構築は このような時代背景があったことを、 その時の生き証人として 記録にとどめたい。」 大戦後の1947年、 高射砲陣地として 開けられた竪穴から 多数の鉄片を発見 した、 歯科医師であった 宮川 徏 さん 。...

エリア履中vol.1 履中天皇陵

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仁徳天皇陵古墳より古く、 5世紀前半頃に造られた… 「 履中天皇陵古墳 」。 久世仁士 さんの 『 百舌鳥古墳群をあるく 』 に書かれているのが、 わかりやすい解説でしょう。 「「上石津ミサンザイ古墳」  「百舌鳥陵山古墳」  とも呼ばれますが、  ここでは石津ヶ丘古墳の  名称を使用します。  履中天皇陵に指定され、  内堤までが宮内庁の管理ですが、  履中天皇の墓であるかどうかの  確証はありません。」 こちらは 拝所 です。 仁徳陵と比べて 格段に狭いアプローチ。 百舌鳥耳原三陵の南陵 ・ 履中天皇陵として宮内庁が 管理しています。 実は天皇御陵には、 それぞれ 『 御陵印 』 という、 独自の印が用意されています。 ただ一般的にはほとんど 知られてません。 全国5ヶ所の 陵墓監区事務所 で 戴くことができますが、 「 天皇陵の御朱印 」と 思えば分かりやすいのかも… 戦前まではそれぞれの 陵墓に事務所があって、 管理されていたのですが、 今は 仁徳陵 も 履中陵 のも、 応神天皇陵 がある羽曳野市の 「 古市陵墓監区事務所 」に 置かれています。 こちら北側にある 後円部を眺められる 一段高い ビュースポット 。 「堺市文化財地図」などから、 陪塚と思われる位置に 10基の小古墳が存在、 うち 七観山古墳 の 出土資料などから、 仁徳陵よりも 古くに造られたことが わかっています。 『 日本書紀 』には、 履中天皇について 「百舌鳥耳原陵に葬った」と、 在位期間については履中6年、 反正は4年程度… いずれにしても、 巨大な権力者の墳墓、 であることに違いありません。 江戸時代の記録では、 後円部中央に大きなくぼみが あったといわれていて、 すでに盗掘 を受けていたとも… 前方部南東角から〜 後円部とのくびれ部分 が よくわかるスポットです。 松がよく映えていました。 「履中天皇陵古墳」 (石津ヶ丘古墳) ・前方後円墳 ・墳丘長約365m、  後円部径205m、高さ約27.6m、  前方部幅約235m、高さ約25.3m ・5世紀初頭 ・堺市西区石津ヶ丘 【世界文化遺産登録候補】