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お伊勢お多賀の子でござる② 寿命石と莚

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お多賀名物 壽命蕎麦 、 朝早いお参りでしたので、 頂けませんでした( TДT) 扁額には 彦藩 万栄万歳講 。 本殿横にある 寿命石 これは石碑です。 鎌倉時代の初めに 東大寺 を再建した、 俊乗坊 重源 の言い伝え… 曼荼羅にみえる 不動院 の前に あるのが寿命石だとか… 重源は7日祈り続け、 虫食いで柏の葉に 「莚」の文字 が現れた。 「 太閤莚寿守 」 こんな感じに虫喰ったの? 国宝 重源上人坐像(奈良・東大寺) 重源上人が背負っていた 笈を置いた場所 が寿命石、 かつては 笈掛石 とも 枕石 とも 呼ばれていたそうです。 多賀大社の神紋は 三つ柏 。 参詣曼荼羅に描かれた本殿、 御祭神は 多賀大明神 の姿。 一遍上人 が諸行遊行で 多賀に立ち寄ったとき、 動かくなってしまった 多賀の神輿に出会ったそうです。 南無阿弥陀仏 と十回唱えると 再び動き出したとか… 神仏習合の時代 は、 御祭神の多賀大明神は 阿弥陀如来 と同体であると 考えられていました。 いわゆる 本地垂迹思想 … 多賀大社の境内には、 不動院 が開基されていて 初代の 祐尊 という僧は、 寄付を募り梵鐘を奉納。 戦国時代の 佐々木六角氏 、 浅井氏 、 尼子氏 などの 名が連なります。 般若院跡 と伝わる社地、 彦根藩主 井伊家の宿坊 。 「 花の生涯 」の 村山多賀女 ※は、 この坊で若き日を過ごしたとか。 このほかに 成就院、観音院の4つの 神宮寺が存在していました。 摂社に位置づけられれている 日向神社 へ… (ひうが)と読みます。 瓊々杵命 が祀られています。 天照大神より神勅をうけ、 三種の神器を奉じ、 高千穂に降臨 された神。 彦根市野田山町に鎮座する 山田神社 とともに 封戸(ふこ) を持っていた社。 封戸とは朝廷から 与えらた俸禄のことで、 社格があったことを伝えます。 参詣曼荼羅には 日向神社門前に橋が 架けられているのが描かれ、 御手洗川にて禊をする人 の 姿も見えます。 本殿前にもどって 銅製の灯籠には、 葵の御紋 と 菊の御紋 。 徳川期に幕府や朝廷から 多くの庇護を受けていました。 大釜 は寛永年間に行われた 正遷宮にて執り行われた、 御湯神事の調度 の一つ。 《多賀参詣曼荼羅 新本》 寛永...

お伊勢お多賀の子でござる① 多賀大社と糸切餅

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「お伊勢参らばお多賀へまいれ  お伊勢お多賀の子でござる」 御祭神は 国産み神話で知られる 男神・ 伊邪那岐命 (いなざぎのみこと)と 女神・ 伊邪那美命 (いざなみのみこと)。 『古事記』によると、 二柱の大神は神代の昔に、 初めて夫婦の道を始められ… 天照大神をはじめとする 八百万の神々を お産みになられたとか… ちなみに 千木は外削ぎ 、 外宮と同じなのは、 伊邪那岐命 を主祭神と されていることによります。 国産みの聖地は淡路島にある 「 おのころ島神社 」でも ありますが… おなじく『古事記』に 「伊邪那岐大神は  淡海の多賀に坐すなり」 とあり、 ここ多賀大社に 祀られるとされています。 もとい鳥居を経て、 架かる石の太鼓橋、 太閤秀吉寄進にちなみ 「 太閤橋 」とも… 《多賀大社参詣曼荼羅図》  多賀大社 所蔵 築造は江戸初期寛永15年の 大僧正 慈性 が徳川幕府の 助成を受けて造営した 寛永年間の大造営によるもの。 こちらは今は MIHO MUSEUM に 寄託されています。 曼荼羅に 描かれるのは木橋ですが、 坂のない平らな橋も 今は石橋 になっています。 曼荼羅に描かれる太閤橋、 秀吉が 母・大政所 の病気平癒を 大社に祈った際の寄進一万石で 造られたもの。 水を汲みに行く女性の姿、 綺麗な水を 門前のお茶屋 さんへ 運んでいるのでしょう。 「近江名所図会 巻4」 1814年(文化11)の多賀大社、 門前に茶屋が描かれます。 筵寿堂本舗 さんへ… 名物は「 糸切餅 」 刃物ではなく糸で切るので、 糸切餅というそうですが… なぜ 青赤青の三筋 なのか? 蒙古来襲 に遡ります… 台風によって国難を 免れたという神風。 蒙古の旗印 に由来するとか… 三味線の糸で餅を切るのは 刃物を使わず悪霊を断ち切る 、 平和を意味しているとか。 もうひとつのお茶屋さんは、 大きな 杓文字 を掲げています。 境内に入ると… 絵馬掛けに杓子がずらり… 「 お多賀杓子 」に因んで 杓子のカタチの絵馬。 杓子をつくった木の余りを 地に挿したのが成長した 飯盛木 ...