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池田をあるく④ 逸翁美術館

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小林一三の雅号「 逸翁 」 (いつおう) が冠された「 逸翁美術館 」。 「神さま 仏さま〜祈りの美術〜」 と題した特別展を観ました。 コレクションはもともとは 「雅俗山荘」に置かれていたのだそうですが、 「 一都市一美術館 」をとの小林の理念のもと、 「池田美術館」の建設が計画されていた この地に2009年10月に開館した建物です。 「雅俗山荘」設立50週年を期に新築。 「展示室・茶室・ホール・カフェという要素の配置の間に、  アプローチの前庭・エントランスロビーに  自然光を導き入れる中庭・エレベーターホールに  隣接する中庭を織り交ぜながら、  回遊性と奥行きを持たせた平面計画とした。」   竹中工務店 TAKENAKA DESIGN WORKS vol.12より せっ器質タイルに咲き誇る花、 マグノリア の花なのだそうだ 。 隣接するコンサートホールの名は 「 マグノリアホール 」。 阪急グループのシンボル? 小林一三さん愛顧のもの??… マグノリアとは モクレン のこと、 ちょっとイワレは解らなかった。 こちらは「 池田文庫 」。 宝塚新温泉にあった図書室が源泉と言われ、 上方役者絵や タカラヅカ歌劇 の ポスター コレクションなどで名高いそうです。 「 神さま仏さま 」の展示を… 「 那羅延天図像 」と言われるもの。 仏さまの名前や霊験=効用をまとめたもの、 仏さんのガイドブックとも言うべきもの。 「 熊野本地絵巻 」 室町時代の御伽 (おとぎ) 草子。 虎や狼も山神の命令により、 この王子を守護し養育するというシーン。 キリスト教の祈りに関する絵画も 展示されていました。 展示品の写真は けーぜの「阪急電車でゆるゆるとろとろ生活」 逸翁美術館2015早春展 「神さま仏さまー祈りの美術」より転載しました。

池田をあるく③ 雅俗山荘

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“ミスター阪急”と言われた 小林一三 さんの自邸だった   「 雅俗山荘 」へ… 生活の場であり芸術のための空間が 自分のおウチで実現させちゃった空間。 2階外壁の 「 ハーフティンバー 」がカッコイイ。 外壁に骨組みが露出しているのが 「ハーフティンバー」というく工法。 もとは材木不足だったヨーロッパが源流、 北米では広い空間を作り出すものとして発展。 外観も和風でもあり、洋風でもある。  玄関をはいると重厚な雰囲気が漂う。 瓦葺きの切妻屋根… 実は日本家屋とは違って、 半円形のスペイン瓦が組違いになってる。 外壁は「 リソイド 」という調合左官材料とか… スペイン瓦の屋根に淡黄色の塗り壁、 「 スパニッシュ様式 」の典型的な面構え。 2階吹き抜けの客室は空間で、 階段をあがると部屋を一望できた。 2階には執務室。 宝塚歌劇の創設や 演劇・映画といった事業を 数々と軌道にのせた審美眼は、 2階にギャラリーを設けるなどして、 自分が楽しむだけでなく、 愛好者にも楽しんでもらおうとした まさにサロンであった。 茶の湯についての造詣の深さは、 実業家の趣味の領域を遥かに超え… 庭園内には三つの茶室があるのだが、 茶室「 即庵 」は二方向に間をめぐらし、 椅子に腰掛けて喫茶するという大胆なもの。 60年以上も前にこんな斬新な茶の世界が、 生み出された事実は彼の先見性がみてとれる。 美しく手入れされた庭木たち。 上品なものと俗っぽいものを 「 雅俗 」と言うのだが… パブリックとプライベートが 同居しえた空間ということなのかも。 阪急の歴史をたどる展示もあった。 元々昭和初期に 京阪間を高速で結ぶ新線として、 京阪電気鉄道が設立した 子会社「 新京阪鉄道 」 によって 開業されたものが、 今の阪急京都本線ということ。 そして高校野球の発祥の地 「 豊中球場 」のこと。 くまなく見まわったが… 「 阪急ブレーブス 」の 展示は 見当たらなかった。 おそらく オリックス・バファローズ との、 絡みによるものなのか??

「KANO」列伝④ 蘇 正生

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「2番 センター 蘇正生」 (そ・しょうせい) 『KANO』のうち3人は日本人、 蘇正生ら2人は「本島人」と呼ばれ、 4人は先住民族「 高砂族 」だったそうです。 中京商との決勝戦に寄せた 作家 菊池寛 の甲子園印象記にこうある 「日本人、本島人、  高砂族という変わった人種が  同じ目的のため共同し  努力しているということが、  何となく  涙ぐましい感じを起こさせる」と。 写真は 嘉義大学 に設置された 近藤兵太郎 監督と 蘇正生 選手の彫像。 日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなった。 国民党軍による反対派弾圧事件で 2万ともいわれる死者が出た歴史が残る。 蘇のチームメートだった 陳耕元 らは 混乱をさけて田舎に帰り、 先住民のために学校を作り野球を教えた。 蘇正生さんは 甲子園第二回戦の札幌商校戦で、 最も遠い 外野レフトスタンドの壁 に当てる 三塁打を放ったという怪物だった。 そして近藤兵太郎監督は、 愛媛の松山商で監督をしていた人。 「 球は霊 (たま) なり 」の碑は 松山の 坊っちゃんスタジアム 近くに 2014年10月に設置されたのだそうです。 『KANO』メンバー中では最も長生きし、 嘉農の「語り部」 でもあった。 「嘉農口述歴史」に彼の言葉が残る。 「(天下の嘉農の成功の)功労者は 近藤先生である事は言うまでもありません。 近藤先生は日本中等野球の名門校、 松山商業の優秀な選手で、 アメリカに遠征した強者で実力は抜群でした。 のち嘉義商工専修学校の会計を担当、 その傍ら嘉農の要請で 野球のコーチを兼ねていました。 然し本職が商工学校だったので、 毎日のように私達を コーチする事は出来なかったのです。 依って嘉義農林野球部はある方面から言って 自治制、 自発的精神のもとで成長 してきたと 言っても良いのではないでしょうか。」    「戦後は故郷の  台南県東山郷の郷公所に勤め、  少年野球などで後進の育成にあたった。  晩年、忘れられていた嘉義農林が再び  注目されるようになってからは、  最後のメンバーとして   台湾野球界の 「国宝」 と呼ばれたが、  2

池田をあるく② 池田実業銀行 本店

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明治維新後の「池田」は公共機関の設置、 さらに現在の阪急電車箕面線である 箕面有馬電気軌道 が敷かれるなど 住宅開発が進み、 能勢・豊能郡の行政経済の中心地として その役割を担っていました。 池田で最古の鉄筋コンクリート建造物 が、 もと「 池田実業銀行 本店 」です。 落語『 池田の猪買い 』でも知られるように、 大坂の街中とくらべてグッと寒さが堪える地。 虎次郎が訪れたときも 雪がしっかりと降って 、 「 落語みゅーじあむ 」で暖をとりつつ、 仁鶴さん のを DVDで観させてもらいました。 「 おたなKAIWAI 」マンガ「池田の猪買い」より 池田最古の鉄筋コンクリ建に戻ります… 今は「 いけだピアまるセンター 」に。 「ピア」は近くに池田伝承の 唐船ヶ淵 という船着場があることから、 英語で桟橋や船着場を意味する「 ピア pier 」。 文化や情報が集う場所になるように願って。 中小企業や起業家の支援拠点として設立。 「まる」は開設が 西暦2000年 にもちなむ。 鉄筋コンクリート造2階建の どっしりした面構え、 基底部が石張風に仕上げられており、 縦長上げ下げ窓間の狭い壁面には 褐色タイル が貼られて、 頂部は「 アーキトレーブ風 ※ 」 につくられています。 銀行らしい重厚さに近代的感覚が融合したよう、 設計は鉄道院出身で大阪で活躍したと伝わる 小笠原鈅 (ますみ) さんが手がけられたもの。 小笠原鈅さんはのちの小笠原祥光で、 住友の技師を経て 小笠原建築事務所 を開設、 原田産業大阪本社ビル は彼の設計です。 池田実業銀行 は1912年(明治45)に創立。 清瀧徳兵衛 氏が初代頭取に就任しています。 その後、清瀧幸次郎氏が頭取に就任、 近隣の銀行を吸収しながら 勢力を拡大していたとか。 戦時中の大蔵省の勧告によって、 1945年(昭和20)7月に 住友銀行と合併 となり、 30年余りの歴史に幕を閉じています。 「池田実業銀行 本店」 →いけだぴあまるせんたー 建築年:1925年(大正14) 設計 :小笠原鈅 構造 :鉄筋コンクリート造2階建 所在地:大阪府池田市新町2-14 【国登録有形文化財】 ※

池田をあるく① 加島銀行 池田支店

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こないだ 阪急電車に乗って…池田まで 。 おそらく物心がついてから初めての「池田」。 ここにも赤レンガがあると 歩いてきました。 「 旧 加島銀行 池田支店 」の赤レンガは、 池田市の中心街にあって、 能勢街道に面して建っていました。 以前は 歩道にアーケード があったそうですが、 その美しさを堪能できるようになったそうです。 窓上や柱型上部にやや抽象化された装飾があり、 正面西側部分は マンサード屋根の破風 を設えて、 塔屋風に見せています。 設計は 辰野片岡建築事務所 。 東京駅丸の内駅舎や大阪市中央公会堂などを、 まさに明治・大正時代に日本建築界の最高峰と 称されたミスター赤煉瓦建築・ 辰野金吾 の、 特徴が小規模ながらもよく見て取れます。 1918年の竣工とされています。 共同経営者の 片岡安 は、 旧大阪市庁舎等を設計した人でもあります。 外観は赤煉瓦で飾られていますが、 構造は木造モルタル造のところを、 煉瓦タイルを外壁に貼って、 煉瓦造風に見せている のです。 加島銀行は 1888年(明治21)大阪財界の 広岡家 が 大阪土佐堀に合資会社として設立した銀行。 広岡信五郎は 「 尼崎紡績 」の 設立にも参画したそうです。 その後、昭和の金融恐慌で経営困難となって、 1929年に野村銀行・山口銀行・鴻池銀行に 分割されてその業務が譲渡されました。 「加島銀行 池田支店」 →河村商店 建築年:1918年(大正7) 設計 :辰野片岡建築事務所 構造 :木造2階建、鉄板葺 所在地:大阪府池田市栄本町3172-1 【国登録有形文化財】

「KANO」列伝③ 呉明捷

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1931年(昭和6) 主将兼エースの4番。 甲子園では初戦の神奈川商工に完封勝利し、 全試合を完投した。 オーバースローの大きな投球フォームは、 「 まるで鷲が両翼を広げたよう 」                 と観衆を驚かせ、 速球、カーブ、 そして「 アウドロ 」とよばれた アウトコースのドロップで変幻自在。 「麒麟児」「怪腕」と称されたその人、 「4番 ピッチャー 呉明捷」  (ご・めいしょう) 東京ドームにある野球体育博物館、 特別展示「 嘉義農林と映画『KANO』 」として 蒲浩明 さんの手による「 翼伸びの鷹 」の ブロンズ像が3月1日まで観られるそうです。 その後の呉明捷さんの球歴。 「1932年に嘉義農林を卒業したが、  腸チフスにかかっため1年遅れて  早稲田大学に進学した。  早大野球部では肩の故障から一塁手に転向、  今度は強打者として東京六大学野球で活躍する。  1936年秋に打率.333で首位打者を獲得。」 通算7本塁打の記録は、 1957年の8本の 立教大  長嶋茂雄 まで 破られることはなかった金字塔であった。 「翼伸びの鷹」は実はレプリカ、 台湾・嘉義市の 黄敏恵 市長から 野球体育博物館に寄贈されたものなのです。 ホンモノは『KANO』で当時の凱旋を 再現した市内パレードでも登場した 噴水広場に設置されたものなのです。 1939年に早大を卒業した呉明捷さんは、 プロ野球のスカウトを振りきって、 東京に本社のあった 「台湾拓殖株式会社」に入社された。 社会人野球選手として活躍された記録が残る。 その後も東京暮らしで、終戦後も日本在住。 1983年に日本にて生涯を閉じられた。 生涯日本に帰化することなく、 台湾国籍のままだった と伝わります。 甲子園歴史館に展示された時の 「翼伸びの鷹」像と 「嘉義農林 第17回大会準優勝盾」(複製) プロ入りしなかったのは、 たぶんケガのせいもあったと思われるが、 職業観が大きかったとも伝わります。 好きでやっている野球で生計を立てる とは考えておられなかったようです。 「プロ野球という職業が  まだ確立してい