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同志社の赤煉瓦たち⑦ 良心館 

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卒業から四半世紀も時が過ぎると、 真新しい赤煉瓦も聳え立っておった。 2012年10月に竣工した「 良心館 」がそれ。 岩倉キャンパスに移転した同志社中学校の跡地に ズド〜ンとかまえる40,000㎡を超える広さ。 そしてイマ日本一と言われる同志社の自慢の、 「 ラーニング・コモンズ 」とやらも ここに入っておるわけでありまして… ヤル気さえあれば何でもできる環境は、 本当に羨ましい限りで。 もう一度入学したいキモチになりました。 そして学食とか... ラウンジもスタバに行く必要なんてない。 逆に言えば大学が地域を潤わせてた頃とは、 大きく環境が変わったこともあり... 周辺に軒を連ねていた喫茶店や定食屋、 そして訳本屋さんなんてのも すっかり姿を消してしまったようで、 それはそれでなんか寂しい気分。 こんなのが大学にあるって???マジ? そんなラウンジの前に古い石組みが見える。 室町時代には、三代将軍足利義満が開基の 京都五山の1つ相国寺塔中(鹿苑院)。 そして江戸時代幕末には、 薩摩藩と相国寺、二本松藩邸があった。 いわば京都の歴史が刻み込まれた 場所であったことを示す展示もありました。 大階段とよばれるスペースでは演舞が、 繰り広げられていました。 虎次郎が学生の頃は、 明徳館 前で行われていました。 「 良心を手腕に運用する人物を出さん 」と願った、 新島襄の「良心」という言葉が冠された場所。 「一国を維持するは、決して二人や三人の  英雄の力でできるものではない。  それは実に、一国を組織するところの、  教育あり、知識あり、品性ある、  人民の力によらなければならない。  これらの人民は、  一国の良心というべき人人である。  われわれはすなわち、  この一国の良心ともいうべき人を  養成したいと思っている。」  (「同志社大学設立の旨意」より) 新たな時代にも 多くの“良心”が育まれることを... 同志社香里中高にある「良心の碑」

同志社の赤煉瓦たち⑥ 彰栄館

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アメリカン・ボードの寄付により D.C.グリーンが設計した「 彰栄館 」は、 もともと小規模の英学校として スタートしていた同志社が、 今の今出川キャンパスである 薩摩藩邸跡 に 移って初めて誕生した煉瓦建て校舎。 東側に向いた左右対称の建物である。 1951年に同志社中学校の教室棟として 増築された新彰栄館が、 正面右側に接触していたため、 左右対称のファサードになっていなかった。 新彰栄館は2012年末に撤去 され、現在復元中。 館名はそれまでは建築順に第一寮などと、 付けられていたが宗教的な名前が冠された。 竣工時に二度目の渡米の途にあった 新島襄は 「彰栄ノ家彰栄館ト名ケラレシ由、  誠二美ハシキ名ニシテ(中略)  我事業ノ其名ニ負ケザル様致シタシ」 と、 その竣工の報に接して日記に記したのだという。 キリスト教に風当たりの強い時代であったが、 京都府顧問であった 山本覚馬 が、 京都・相国寺門前の薩摩藩邸跡地を所有していた。 その5900坪を 学校建設のために、 500円という超安値で売り渡したことが、 同志社をさらに大きくさせたと言われる。 塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねており、 毎朝の礼拝を告げる鐘の音は、 同志社中学校が岩倉キャンパスに移転するまで、 「 司鐘生 」と呼ばれる中学校の生徒が 担当していたのだそうだ。 「ある朝チャペルの礼拝の話の中で和田琳熊先生が  「相国寺の鐘はGoneゴーンと消えてゆくが   彰栄の鐘はCanキャンと叫んでいる。   これは仏教徒キリスト教の性格の相違を   象徴しているかのように思える」  と語られたのは今も忘れられない。」     (加藤延雄「彰栄館の時計と鐘」より) 設計の D.C.グリーン は宣教師は、 実は建築の専門家ではなかったのだそうだ。 子供のころ祖父の煉瓦積みを見ていた、 という経験を生かし設計したというが、 京都の町大工と力を合わせて作り上げた。 外壁はレンガ造りですが、内部は二階建ての木造で、 屋根も純和風の小屋組に日本瓦が葺かれ、 鬼瓦までのっています。 内部の構造は太い檜の柱と太い丸竹の壁下地、 これを土で塗り込めて厚い壁が作られていて、 まさに土蔵や城郭と工法が使われている。 校舎の建築

同志社の赤煉瓦たち⑤ 明徳館

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「 明徳館 」は 中国の古典『大学』の三綱領の一つ 「大学ノ道ハ 明徳ヲ明ラカニスルニ在リ」に由来する。 第13代の 大塚節治 同志社総長が命名した。 新制同志社大学のシンボルとなる建物。 大きな教室「 M21 」は、 同志社EVEで大学のサークルで出店の タイガースカフェをやったとこ。 そして裏手に は 虎次郎の所属した 文学部の研究棟、 この風景に立つと学び遊び、 そしてどこか照れくさい思い出も募る。 正面には1951とあるが... 1952年3月に第一期工事が竣工、 今のカタチになったのは第四期工事完了の 1954年10月の時だという。 これより高い位置にヨハネによる福音書の一節 " VERITAS LIBERABIT VOS " (真理は汝らに自由を得さすべし) と刻まれています。 食堂や靴屋、生協などがあったM地下への、 手狭なエントランスは学生の頃よりは、 少しは明るくはなっていたが... 低い天井に急な階段はそのままでした。 生協は新しい校舎に移ったようだ。 ここから見るキャンパスは懐かしい。 塔のたもとにあるのは、 ワイルド・ローヴァー号 のタブレット。 新島襄が国禁を犯し、 函館から米船ベルリン号で出国。 函館~上海をベルリン号、 そして...上海~ボストンは ワイルド・ローヴァー号で渡った。 船長夫妻の支援を受けて勉学に励んだ。 「同志社大学 明徳館」 建築年:1952年(昭和27) 構造:鉄筋コンクリート2階建て、地下1階、塔屋付   (外壁 煉瓦色のタイル貼り) 設計:大倉三郎 施工:ミラノ工務店

同志社の赤煉瓦たち④ 同志社大学礼拝堂

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「彰栄館」についでアメリカン・ボードの 寄付によって建てられた「 礼拝堂 」。 日本に現存する最古の赤煉瓦造の プロテスタント教会であります。 正面中央に 円形のバラ窓 、左右にアーチ窓を設け、 その前に屋根と 尖りアーチの入口 を持つ。 石とレンガとの組み合わせが美しく、 簡素な アメリカンゴシック様式 。 木枠の窓に赤黄緑コバルトの色ガラスが はめ込まれている。 大河ドラマ「八重の桜」の9月 に 使われていたオープニングは、 ここで撮影されたものなのだそうです。 設計はD.C.グリーン、 施工は「 有終館 」も請け負った 京大工の三上吉兵衛さん。 屋根を支える小屋組みは、 英国の古い手法をそのまま残している。 右手にある新島襄の肖像。 講堂には  山本覚馬 、 J.D.デイヴィス の 三人が一堂に会する まさに 同志社にとって特別の場所 。   「此礼拝堂ハ我同志社ノ基礎トナリ、  又タ精神トナル者 」だと、 1885年(明治18)12月、 新島は定礎式でそう述べたのだそうです。 堂内正面のアーチは昭和の始め補修されて 原型が分かったそうで、1959年、 2階を拡張して階段が二ヶ所に設けられました。 外からみるとこんな感じです。 もとはどうの中央に 色とりどりの唐草模様のある 金属製の笠がついた アセチレンのガス灯があったとか。 現在は大正初期に改められた 電燈が灯されています。 大正期まではこの建物で全学的な式典や、 同志社EVEの音楽祭 も行われました。 1981年11月には 近代洋風建築シリーズの 記念切手にもなっています。 「同志社礼拝堂」 建築年:1886年(明治19) 構造:煉瓦造り平屋建て、一部中二階と地下室付 設計:D.C.グリーン  施工:三上吉兵衛 【国指定重要文化財】