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倉敷で遊びょーる② 虎次郎の由緒

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倉敷といえば“大原美術館”ですが、 アイビースクエア内にも美術館の 分館なるものがあります。 「大原美術館 児島虎次郎記念館 」が この赤煉瓦です。 倉敷紡績の第二代社長の 大原孫三郎 という人は、 現在の早稲田大学である 東京専門学校で学ぶのですが、 学業よりも遊興に身を投じたとか。 若いときは倉敷に、 連れ戻されるような 生活をしていたようです。 ただ、 父 孝四郎 のあとを継いだ後は、 自らの行いを悔い改め、 実業のさらなる発展に尽くします。 そして記念館の名にあるのが、 自画像の 児島虎次郎 です。 虎次郎は1881(明治14)年、 現在の岡山県 高梁市 成羽生まれ。 大原家の大原奨学会から支援で、 東京美術学校西洋画科へ入学。 【「和服を着たベルギーの少女」1911】 その後孫三郎が、 ヨーロッパ留学を勧め、 ベルギー の美術アカデミーを 首席で卒業し、帰国。 【「朝顔」1916-1918】 一歳違いの二人は、 画家とパトロンという間柄を 越えた生涯の親友だったそうです。 一方で、 孫三郎は 石井十次 との交わりから、 石井経営の岡山孤児院の支援をはじめ、 社会事業にも取り組んだそうです。 倉敷へ戻った虎次郎は、 孫三郎らの勧めで 石井十次の 長女・友 と結婚。 今の 倉敷市酒津 に 新居とアトリエを構えたそうです。 風土や画材の違いに悩みつつも、 ベルギーでの学びを活かし、 地元の景観などをモチーフに、 数々の優れた作品を描きました。 記念館はもとは、 倉敷紡績工場の製品倉庫として 建てられたものです。 工場敷地の西北隅に位置し、 コの字型平面。 入口廻りの額縁のデザインが印象的、 要石の位置にクラボウの社章、 「二・三のマーク」 。 「社訓「謙受」の精神をシンボライズ。  人々はとかく一番になると、  慢心し心が緩み後退するので、  たとえ何事において  一番になったときでも、  常に二番・三番にいる気持ちで、  一番を目指すつもりで努力せよ、  という訓戒をカタチにしています。」 のだそうです。  クラボウHP より 瓦葺の 鬼瓦 にも社章がみえました。 「児島虎次郎記念館」 建築年:1906年(明治39) 設計 :不詳 構造 :煉瓦造2階建、瓦葺 所在地: 岡山県倉敷市本町1160

倉敷で遊びょーる① 倉敷紡績発祥の地

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今年の広島遠征は梅雨真っ只中!! 天気予報がしっかり当たって、 涙雨の三連戦 (T_T) になってしまいました。 雨雲が迫ってくる前に 倉敷をぶらりと… 遊びょーりました。 倉敷は江戸時代は、 天領 として栄えた地。 ただ明治維新によって 米と綿の単なる集積地で、 発展から取り残されたそうです。 暗い状況から脱却しようと、 倉敷紡績 の創設に 立ち上がったのが 大原家 でした。 「 倉紡記念館 」は 創業時の原綿倉庫を改修したもの、 まっ白な 漆喰仕上げ で、 腰を板貼りとした土蔵造り。 増築時に2棟がつながれて、 コの字 の平面配置にされています。 左隅の部分の境界は、 煉瓦壁が建ち上げられています。 開館前の入口はこんな感じでした。 提灯の左にあるのは、 イギリスから輸入された 消防器具 。 綿を扱う紡績工場では、 火災の死活問題…従業員の 生命第一の思いなのでしょう。 奥にみえる 大型ストーブのようなものは、 「 プラット社紡績機械 」。 倉敷紡績の品質を支えた機械です。 こちらは“ 棟方志功 の書画” 「 玉琢かざれば器とならず、    人学ばざれば道を知らず 」、 描かれたハマナス は強く生き、 美しい花を咲かせるように、 勉強を続けようという意。 戦時中、 大原總一郎 社長が 従業員たちへの思いのたけをと、 強い願いを棟方が応えたものです。 第4室には、 大阪万博のパネルがありました。 「 せんい館 」に参加したこと。 「せんい館」の キャッチフレーズは、 “若いあなたのパビリオン”。 「 ファッションショー 」も 当然のことながら見所のひとつ。 至極当然なことですが、 ユニフォームも 他を寄せ付けない、 繕いだったと言われています。 こちらは 本社工場集塵室 と 塵突 、 1889年(明治22)の建設。 始業終業の合図として 使われていた「 鉄鈴 」。 蒸気によって鳴る 作動装置も当時のまま。 塔屋のフォルムもよすよす。 英国風の 鋸型の屋根 にも会えました。 倉敷 という地名の由来… 蔵屋敷 が転じたとも、 中継所として物資を 保管している所を 「 倉敷地 」と呼ぶことからとか。 「倉敷紡績記念館」 倉敷紡績 倉敷工場 原綿倉庫→ 建築年:1

大阪の近代化遺産をあるく〜京町ビル

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西船場北エリアではひときわ 大きな近代建築「 京町ビル 」は、 大大阪の記憶 を刻むテナントビル。 4階部分の 3連アーチ窓 1階部分はグレーの石貼り。 2階から上は 褐色のタイル 。 窓周りの縦ラインの コンクリートが印象的。 セセッション風 というやつ。 窓の間には テラコッタ の レリーフがアクセントを添える。 北の角にいくと、 四ツ橋筋側を長辺とした 台形ビル やと分かります。 施主が敷地いっぱいに 建てたことの証なのです。 北面には木製の両開き扉。 ほとんど昔のまま、 手がつけられていないそうです。 「建築家は様式としての  完全性を求めながら、一方で  オフィスビルの事業性にも  応えなければならない。」 葛藤のうえの産物なのでしょう。 建築当初は4階に 「 清和倶楽部 」という社交場、 5階には「 京ビル食堂 」が あったそうです。 ちょっと 大江ビル や ダイビル に 共通するところがありますね。 ただ5階の上にはさらに・・・ 増築が見えます。 これもテナントビルとして、 収益性を求めた結果なのかも。 「京町ビル」 京町堀ビルディング→ 建築年:1926年(大正15) 設計 :岡部顕則(岡部建築事務所) 所在地:大阪市西区京町掘1-7-1

大阪の近代化遺産をあるく〜崎山ビル

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靱公園の東側にある 大正時代のビル だそうで… 今は剥落防止の ネットが被せられていて、 すでに廃墟化… お洒落な佇まいも ザンネンな状態に。 2010年頃までは1階で、 イタリアンレストランが 営業していたようです。 植物を描いた ステンドグラス 。 もう少し早めに手が 入れられていたらなぁ〜。 裏に回ると… コインパーキングがあるので、 全貌が見て取れます。 少しセンターをはずれた部分が、 せり出しています。 2007年に発行された 『 大大阪モダン建築 」 青幻社刊には、 こうある… 「OUIUM(オピューム)という  イタリアンレストランが  本格的な 料理を 提供し続けている。  内部は小さな玄関からは  想像できない天井の高さ。  天井の梁には幾何学模様の  細かな装飾が 残り、  円柱の壁柱がそれを支える。  オーナーは天井の高さを活かして  2階にロフト席を新設、  照明も自らデザインするなど、  元の空間を活かした重厚な雰囲気の  レストランになっている。」 窓のデザインも秀逸。 モザイクタイルの 組み合わせもなかなか。 アルミサッシのところは、 最近まで使われていたエリア?。 「崎山ビル」 建築年:1923年(大正12) 設計 :不明 構造 :鉄筋コンクリート造り4階地下1階 所在地:大阪市西区靱本町1-6-2