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ヒロシマ爆心地から1350m〜縮景園

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縮景園 は被爆当時、 第⼆総軍司令部付情報参謀・ ⼤屋⾓造中佐指揮下の 海外通信傍受所 が置かれていて、 ⽶国移⺠2世の⼥性20⼈ が 海外放送を受信 していたそうです。 広島藩主  浅野長晟 (ながあきら) が、 元和6年(1620)から 別邸の庭園として築成された  「縮景園」、 幾多の景勝を聚め縮め て表現した、 名の由来とされるが、 中国 杭州の西湖 を模して 縮景した とも伝わる 藩の家老でもあった 茶人・ 上田宗箇 の作庭です。 池の中央にかけられた 跨虹橋 (ここうきょう) 。 七代藩主 重晟 (しげあきら) が 京都の名工に二度も 築きなおさせたものといわれ、 東京  小石川後楽園の円月橋 、 京都 修学院離宮の千歳橋 にも 通ずる大胆奇抜な手法。 原爆被災後の話に戻ります。 園池の⽔をもとめた⼈々の 死体が重なっていき、 午後2時ごろからは 園内の森が燃えはじめ…、 そして⻯巻(T_T) 京橋川を渡って逃げまどう、 泳いで渡ろうとした⼈は ほとんどが亡くなったそうです。 ⼀枚の写真を⼿掛かりに、 県教委が1987年7⽉と8⽉に 原爆死没者の御遺体を発⾒、 64体の御遺⾻を発掘。 1987年8⽉6⽇に 平和記念公園内の 原爆供養塔 に納⾻されました。 [原爆被災説明板 --縮景園--] 設置場所 : 中区上幟町2番11号 爆心地から約1.35キロメートル

ヒロシマ爆心地から330m〜平和記念資料館

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2015年以来ひさしぶりに 8月6日 に行ってきた… 平和式典を終えてからの 時間に到着したので、 平静を取り戻しつつ ある ドーム周辺だった。 そういえば来年のこの日は 新しい年号になるのだなと。 原爆ドームもいずれは 朽ちていくだろうし、 記憶も薄れていく… ただ避けるべき惨事であったこと、 ツナゲル努力を尽くしていきたい。 広島平和記念公園には、 多くの慰霊塔が点在している。 その一つ「 動員学徒慰霊塔 」。 平和の女神像と 8羽のハトを配した高さ12mの 有田焼の陶板仕上げ… 1967年7月15日の建立。 円鍔勝三 さんのレリーフ。 「 食糧増産作業 」 「 女子生徒の縫製作業 」 「 工場における作業状況 」 そして「 広島の灯ろう流し 」 碑文にはこうある 「第二次世界大戦中増産協力等  いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、  全国にわたり三百数十万人。  あたら青春の光輝と、  学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、  戦禍にたおれたものは一万有余人。  その六千余人は原爆死を遂げた。  この塔は明眸青雲を望み、  将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、  祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと  有志同胞の手によってうち建てた。」 元安橋 ゆ 旧燃料会館 「 原爆忌はるか 」新延輝雄 作 [燃料会館] 設置場所 : 中区中島町1 爆心地から約170メートル 1929年大正屋呉服店として完成。 戦争が激しくなり、経済統制も進められ、 1944年6月、県燃料配給統制組合に買収。 さく裂した原子爆弾により、 屋根は大破、内部も破壊炎上し、 地下室にいて奇跡的に生き残った1人を のぞいて全員が犠牲となりました。 [ 元安橋 ] 設置場所 : 中区大手町一丁目地先 爆心地から約130メートル 原子爆弾の爆風により点灯装置の 笠石が左右反対方向にずれ、 欄干も元安川に転落しましたが、 橋自体は崩壊を免れました。 現在の橋は1926年の竣工当時の姿を 再現したデザインで架け替えたものです。