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江戸のデリバリー② 出前の最初は蕎麦

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《しん板猫のそばや》 より   四代 歌川国政 ⽇本で最初の出前は 「蕎麦」 。 江戸期の寛⽂年間(1661-72)、 吉原にできた店が 遊廓の夜⾷⽤ にと、 そばの出前を始めたとか… 『還魂紙料』※けんどん屋図 「けんどんそば切り 」と 呼ばれたこれらの店。 「けんどん」 とは 出前 の意、 漢字で書くと 慳貪 … 『広辞苑』には、 ①けちなこと②愛想がないこと 3つ目に書かれるのが、 「江戸時代,そば、うどん、  飯、酒などを売るとき  一杯ずつ盛りきりにしたもの」。 「新版御府内流行名物案内双六」より 「巻飩 」とも書いたそうで、 その字の意味は 「落としフタ」細工を指します。 ただ… 「 つっけんどん=突慳貪 」        に由来するとも、 もともと1杯でも2杯でも お代は同じだったのを、 急に一杯いくら の商売に。 冷たい印象を与えたことで、 ケチとか愛想がない に通じたとも。 《しん板猫のそばや》より  四代 歌川国政 蕎麦は「食う」というより 「手繰る」 がよく似合う。 江戸時代の初期まで、 町人は蕎麦を手繰ることが できなかったそうです。 それまでは 蕎麦掻き 。 《与三郎一代咄シ      おとみ住家》より  三代 歌川豊国 蕎麦そのものは 縄文時代 から 食べられていたとか… 高知県では9300年前の花粉、 埼玉県も3000年前の そばの種が見つかっています。 蕎麦掻きは鎌倉時代から、 石臼の普及 と重なります。 《しん板猫のそばや》より  四代 歌川国政 1643年(寛永20)の 日本最初料理本 『料理物語』 に そば切りの作り方がみえます。 当初は 蒸籠 (せいろ)蒸し 、 いわゆる… 十割は茹で辛かった のです。 《鬼あざみ清吉》   三代 歌川豊国 蕎麦でいちばん有名な 浮世絵かも知れません。 「二八蕎麦」 は 蕎麦8:小麦2 という 割合という説。 《神無月はつ雪のそうですか》  歌川国貞  もうひとつは、値段が16文。 2×8=16の符丁 からきたとも。 符丁とは合言葉 のこと、 16文はいまの300円ちょっと。 画題にある 「そうですか」 、 「 京で辻君 、 大坂で嬬嫁 、   江戸の夜鷹 は吉田町」 屋台で暖を取る状景、 黒の衣裳、...

大津絵の伝承者たち⑨ 河鍋暁斎

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《狂斎百図》より  「大津絵の戯」  1863-66年 河鍋暁斎 という絵師… 2019年のちょうど今ごろ 東京の サントリー美術館 で、 「その手に描けぬものなし」 という展覧会がありました。 幕末明治という時代転換期を クロスオーバーした画家、 狩野派と浮世絵を 自在に描いた人 … 狂斎 とも号しました。 《風神雷神図》 1871年 「風神雷神図」は、 俵屋宗達 や 尾形光琳 の 国宝があまりにも有名… 琳派のお家芸 ですが、 狩野派も伝統的に得意 としてきた画題でした。 これまでにない構図、 雷神が大切な太鼓を 海に落として、 鉤で釣り上げている様は、 まさに 「雷公の太鼓釣」 。 《鷹に追われる風神図》  1886年 こちらでは風神が、 鷹に追われていて… こんなの描かれたら、 風神の威厳もありません。 「暁斎にとって大津絵の  キャラクターたちは、  徹底してユーモアを  創出するためのツール」 ※ だったと評されています。 《狂斎百図》より 「大津絵の東下り」  1863-66年 富士山を背に藤娘、 鬼の念仏たちが川を渡る。 《狂斎百図》は諺 を テーマにした連作なのですが、 この大津絵画題のものには、 図像の表題が付されいます。 《応需暁斎楽画》  地獄の文明開化 大津絵画題ではありませんが、 錦絵として描かれた図。 文明開化の波が、 地獄まで押し寄せたと… 地獄なのに文化に流される とはいかにも滑稽です。 《閻魔と地獄太夫図》 かつて… ブログで紹介した作品。 画調としてはよく似た 《大津絵風雨帖》 なる 画帖の「藤娘と座頭」。 ブログにアゲられないモノ、 エロチック過ぎるのです(T_T) 暁斎の機知に富んだ 闊達な発想力を存分に 発揮し得るモチーフが 大津絵画題であったと、 言えるのでだと思います。 《浮世絵大津之連中睡眠の図》  1870年以前 眠る 釣り鐘弁慶 や 鬼の念仏 、 口に錠前を付けられた 槍持ち奴 。 弁慶の夢とみられる大天狗の 鼻に群がる人たち… 「暁斎の得意とした  何らかの時勢風刺が  意図されたものと推察され、  暁斎が風刺という方面に  明確に大津絵の画題を  使用している唯一の例」 ※とか… 《新富座妖怪引幕》 左部分 1880年  暁斎が盟友でもあった 戯作者・新聞記者の 仮名垣魯文 の依頼で...

神のつかわしめ たち④ 子〜敷津松之宮

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木津の大黒さん の横断幕、 そして 大国主神社 の石柱、 実は大国主神社は、 敷津松之宮 の摂社。 わかりやすく言うと、 メーンは敷津松之宮で、 大国主神社はサブにあたる お社なのです。 地名も駅名も逆転現象… 敷津ではなく大国町 。 地域にとっての 重要な社として、 大国町の由来は ここ大国主神社なのです。 氏神様と掲げられる 敷津松之宮 を先参り、 そして社殿前の 大黒天の石像 に願掛け。 大黒さまの 額にオデコを当て 、 次に 右手の小づち に触れる… 地元の人たちのお作法とか。 その後… 大国主神社 本殿へ。 坐するのは 「日出大国像」 (ひのでだいこくぞう)。 朝日を抱く代わりに、 小槌も袋も持たない、 独特のスタイルです。 絵馬には小槌がみえますが… 狛犬ではなく 狛鼠 … なぜネズミが大黒様の 神使となったのか? 古代の中国に家鼠を 霊獣とする信仰があって、 家にねずみを描く 風習があるとか… ネズミには災害を 予知する能力 があり、 火事や地震が起こる前に 集まって安全な場所へ 移動する習性がみられます。 《鼠大黒》白隠 図は鏡餅を前にして 大黒天が座禅 を組む、 音曲に興じる 七福神 たち。 黒袈裟のネズミたちは神妙、 宴の準備をするネズミもいます。 毘沙門天の代りの鍾馗 … 鍾馗だけはむっつりと。 『古事記』にも ネズミ 、 大国主命を救った と… 素妻鳴尊が大国主命の 能力を試そうとして、 大国主命に広野に行かせ 野原の草に火を放った。 《大根鼠画賛》仙厓 画 大国主命は逃げ場を 失ってとまどったところを、 一匹の鼠が現われ、 「この下に穴がある」と… 穴の底に身を伏せて、 お蔭で助かったという。 命の恩人…いや 命の恩ねずみ 。 ほど近くに… 商売繁盛笹もってこい の 今宮戎神社 が鎮座します。 御祭神は天照皇大神、 事代主命 、 素戔嗚尊、月讀尊、稚日女尊。 推古天皇の御代に聖徳太子が 四天王寺建立の際に、 西方の鎮護として祀られたと 伝えられています。 《大黒天 恵比寿》  河鍋 暁斎 画 事代主命は大国主命の子 として、 共に国造りを行った国津神。 いつも一緒にいることが多い。 いずれも 「大阪七福神めぐり」 に 連なる神社なのですが、 地元の風習として根強く 続けられるのは 「両社参り」 。 「えびす・だいこく  ...

「若沖と江戸絵画」をたずねて4>閻魔と地獄太夫

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◎ ◎ ◎ ◎ 「若沖と江戸絵画」をたずねて 4   ◎ ◎ ◎ 閻魔と地獄太夫図 /    伝 河鍋 暁斎 ( かわなべ きょうさい ) 河鍋 暁斎 (1831-1889) は、 江戸時代の日本画の 素晴らしい技法を、 明治まで引き継ごうとした  狩野派の画家の一人でした。 河鍋 暁斎 は駿河台狩野系で、 木挽町狩野系では  狩野 芳崖 かのう ほうがい でした。 二人は対照的な性格と画風だと  言われていますが、 その エネルギッシュな活動 は、   さすが狩野派   というところを見せています。 地獄絵 が描かれた着物に身をまとった 遊女 の姿が、   閻魔大王 の   裁きにブレを生じさせているよう でもあります。 日蓮宗 のお上人から先日聞いた話ですが、  死者は7×7= 四十九日 までの毎7日、 百箇日 ひゃっかにち 、   一周忌 、 三回忌 に順次 十王庁 じゅうおうちょう といわれる  場所において罪の裁きを受けるらしいです。   死出の山の山登り から始まり、  そして 閻魔大王 の目の前に連れ出されるのだと。。  地獄太夫は、    果たして地獄か天国か?? お上人は法要の際に、 日蓮は 法華経 の第一の行者なので、  後から来るものは通せ!!と。。 「南無阿弥陀仏」と唱えるこことは、   閻魔大王 への    嘆願書? 援護射撃? でもあるようです。 暁斎 は 正統的なものをより正統的にという方向に、、  一方でこの絵のように 狩野派 の枠を超え、  庶民信仰や庶民美術への指向も強かったようです。 浮世絵、戯画 ぎが 、額絵、行灯 あんどん 絵など、 なんでもこなした彼は、はじめは 「狂斎」 と称していました。 しかし、明治3年の時に画風をとがめられて拘留され、       以後、画号を 暁斎 とされたといいます。 埼玉県 蕨市 に 暁斎 の作品を集める   河鍋暁斎記念美術館  があるそうです。     〒 335-0003   埼玉県 蕨市 南町4−36−4   Tel   : 048ー441ー9780   開館時間:10:00ー16:00   休館日 :毎週木曜日、毎月の26日から月末まで、      年末年始(12月29日ー1月3日)   入館料 : 大人300円 学生200円  小学生100円...