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くじらショモーヤーレ

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長崎ラストのブログは「 くじら 」 お正月・結婚式といったおめでたい席で 長崎では鯨を食べる風習が今なお 引き継がれています。 年末になると... 町のあちこちで鯨が山盛りに 積まれ売られているのが長崎の年越しとか。 グラバー園の 「長崎伝統芸能館」に あった 万屋町の「子鯨」 。 長崎くんちの「 鯨の潮吹き 」は 一つの町しか出さない演目なのだそうで、 なんと7年に一度しか見られません。 龍踊やコッコデショと並んで 最も人気のある出し物なのですが… 実は「 大鯨 」というのがいて、 そっちは長さ6メートル、 重さは2トン以上だそうです。 「 くじら料理 」は実は長崎空港の 鮨どころ 「しょうぶ」 にていただきました。 紅いも焼酎「 ちょうちょうさん 」とともに… 写真をふたたび… ショウガが添えられているのが「 赤身 」。 まんなかの丸いのが「 百ひろ 」。 小腸を処理して茹でたもの。 赤身の刺身肉と魚の中間のような味わい。 しょうが醤油で食べたら「うまかね~」。 赤いのは「 鯨ベーコン 」、 そしてお皿の右に盛りつけてあるのが、 鯨のタン「 さえずり 」。 トロッと解け出す風味とシコシコ感、 ちょっとグロいけど 旨い〜〜〜〜なり (・ω <)。 セットには一杯付いてたけどお代わりを。  麦焼酎「 壱岐 」も 旨い〜〜〜〜なり (・ω <)。  ちなみに ショモーヤーレ とは、 「所望(する。もう一度)やれ」の意。 カステラも絵にはないけど... 旨い〜〜〜〜なり (・ω <)でしたよ。 長崎(・ω・)v 「 モッテコーイ、モッテコイ 」なり。

祈りのナガサキ

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8月6日のヒロシマ を見たことがある。 ナガサキに落とされたのは 1945年8月9日。 広島に続いての2発目の原爆は 北九州・小倉 に落とされる 予定だったと伝わる。 小倉上空の雲が濃く、 第二目標のナガサキ となった。 長崎には三菱造船所と 兵器工場があったから… 「 原子爆弾落下中心地碑 」 投下目標は、 市内中心部の出島の近く中央橋あたりの 予定だったとの記録もあるが、 実際は4Km北にずれて… 日本のキリスト教の歴史上、 最も重要な建築物と知られていた 浦上の聖堂のほぼ真上で爆発 。 「 平和祈念像 」 爆心地近くに残るの 浦上天主堂の外壁の一部 ... 被曝遺構ではあるが 移設されてこの地にある。 平和公園に鎮座するのは、 あくまで戦後に建てられたモノ 北村西望の「 平和祈念像 」。 平和公園の丘には被曝当時は、 「 長崎刑務所浦上刑務支所 」があった。 受刑者や未決囚、 看守とその家族134人全員死亡。 なかには中国、朝鮮人も含まれていた。 こちらも跡が残るのみである。 「 隈治人碑 」 ヒロシマでもそうだが、 平和公園となり毎年執り行われる 平和記念式典の会場となる。 爆心地附近は整備されているのだが、 ナガサキにはシンボルが失われている 。 「 被爆50周年記念事業碑 」彫刻家 富永直樹 ヒロシマから3日後に行われる ナガサキはヒロシマと雰囲気が少し異なる。 「 怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ 」とも。 「 Aコール 」彫刻家 ボリス・ゴンドフ 祈念像をはじめとして実に記念碑というか、 祈念碑が多く立ち並んでいたナガサキ。 「キリスト教という信仰の町だから... でも 宗旨をこえて いろんな主張が許容されるってことか。」 と呟きながら多くの碑文や像の前に立ったのだが、 どこか何か違う雰囲気を感じていた。 「 乙女の像 」 ヒロシマの水辺に刻まれていた メインモニュメントのコトバは 「安らかに眠って下さい 過ちは      繰返しませぬから」 「 平和の泉 」 ナガサキはーある日のある少女の手記から ...

ながさき洋館めぐり 浦上天主堂

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もとの天主堂は東洋一のレンガ造りの ロマネスク様式大聖堂 。 正面双塔にフランス製の 「 アンジェラスの鐘 」が 備えられていました。 再建は1959年(昭和34)の 鉄筋コンクリート造りで、 1980年(昭和55年)にあは 外壁が 煉瓦タイル となって今に至ります。 ところで… 長崎ではあの教科書で目にした 踏絵制度 は、 すでに安政3年(1856)に廃止されていたのですが、 寺請制度というのが続いていたそです。 浦上地区の信徒たちは、 表向きは馬込郷にある聖徳寺の檀家のままで、 キリシタンであっても、 仏式の葬儀を営むべしということだったそうです。 1867年(慶応3)春頃から亡くなった 潜伏キリシタンを檀那寺の聖徳寺の許可なく 自葬する親族が増加したのが 「 浦上四番崩れ 」のきっかけとなります。 「 崩れ 」とは、キリシタンが大量検挙され、 潜伏機関が崩れることをいいます。 神道を国教とする新政府により1870年までに、 約3,400人の浦上キリシタンが 西日本に分散され流罪となったそうです。 その後1873年(明治6)のキリシタン禁制の 高札撤去にともなう太政官令によって 釈放はされるのですが、 帰郷しても家も財産もないために 厳しい生活を強いられたのだそうです。 正面には「 十字架のキリスト 」。 破壊された像は信徒会館あったそうですが、 見れてないなぁ〜〜(TдT) 正面左手は「 使徒聖ヨハネ像 」 原爆で鼻が欠けたものの 破壊されず残ったもの。 右手は「 悲しみの聖母マリア像 」 原爆で指が欠けたが、 こちらも破壊されず残ったそうです。 内部見学もできました(・ω・)v 内部写真は絵ハガキより… 実はこの祭壇を手がけたのは、 浦上天主堂の信者さんで キリスト教葬儀社を 営む 栄光式典社の 西村勇夫 さんという方。 原爆投下当日も浦上天主堂に祈りに行き、 帰宅直後に被爆されたのだが、 奇跡的に一命を取り留められたそうです。 一級技能士の資格を取って独立され、 木工所を経営してカトリックの祭壇を 作る仕事をされてきたそうです。 被爆マリア像 … 木製の...

ナガサキ被曝の浦上天主堂を訪ねて

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ヒロシマは何度も訪れていたが、 ナガサキの爆心地へは初めて… 駆け足だったので原爆資料館見学の 時間は取れなかったのだが、 ナガサキの被曝の象徴 「 浦上天主堂 」を訪ねた。 「被爆後の浦上天主堂」 小川虎彦氏撮影 東洋一の壮大さを誇る「浦上天主堂」。 1945年(昭和20)8月9日 午前11時2分 、 まわりの壁をわずかに残すだけで、 まさにガレキとなった信仰の地。 この側壁は聖堂の南側の一部、 1958年(昭和33年)に新天主堂建設のため 爆心地にほど近い場所に移築されたもの。 爆心地から北東へ約500mの 小高い丘にあった浦上天主堂は、 1895年(明治28)から建築に着手し、 信徒たちの献金と労働奉仕により、 1914年(大正3年)に 献堂式が挙げられたとのこと。 壁上の石像はザベリオと使徒だそうです。 アカンサスの彫刻は 当時の荘厳さを伝えています。 江戸時代キリスト教弾圧の象徴的存在だった 庄屋屋敷の跡地に建てられたのですが、 原爆によってふたたび厳しい経験を 強いられる地になってしまったのです。 浦上地区のカトリック信徒約12,000人は、 ほぼ瞬間的に命を落としました。 爆死したとされる信徒の命は約8,500人 。 こちらは正面部の遺構。 現浦上天主堂の正面に置かれているもの。 手前から 聖セシリア像 、 イエスの聖心像 、 その奥の像は頭部の破壊でわかっていません。 浦上天主堂を背にする像にも お顔がありませんでした。 どれも熱線で黒く焦げていて、 瞬間的な猛烈な爆風で 鼻、指、頭部などが失われていました。 まさに「破滅の時」が 止まっているかのようでした。 こちらは1945年11月23日に行われた 「合同慰霊祭」、 生き残りの信徒約600名が参列し、 浦川和三郎司教司式の死者のミサ。 天主堂は倒壊したので、 ミサにも行けないと思っていたところ、 9月になったある日、 聖フランシスコ病院の焼跡でミサがあると… 南側の半地下室に仮聖堂を移し、 日曜日のミサが 行われるようになったそうである。