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ふたたび「大阪市立博物館」へ

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大阪城天守閣復興80周年祭 の ラストイベントは 特別公開が目白押し。 「 乾櫓・ 焔硝蔵 」、「 謎の石垣 」 そしてもう一つが 「 旧大阪市立博物館 」の内部公開。 かつて「 大阪市立博物館 」だった頃に、 虎次郎はここで博物館実習を受けた 。 もう20年以上前のことですが、 いわば青春の一ページを綴った場所。 自転車で通っていましたことを思い出す。 あの頃が一番充実した時間を 過ごしていたのだなぁ〜と感慨しきり。 「 第四師団司令部庁舎 」からの転用だから、 「 動線 が図りにくく博物館としては致命的 」との、 学芸員のお話が印象に残っています。 というのも 異様に廊下が広く 、 展示室と展示室とのあいだに間延びが 生じるのが難点と言われていました。 さすがに3階は壁を取っ払って 展示スペースを確保されていましたが… 玄関部分のシャンデリアは   一基だけ灯されていました。 1階部分の中央にある階段周りの      装飾も重厚そのもの… そして2階へ… ステンドグラスが美しい… 長期間使用されていなかったということもあり、 玄関エリアから2階までの 公開となっていました。 で… 師団司令部時代の「 貴賓室 」へ。 「 大阪市立博物館 」時代には、 日本万国博覧会のタイムカプセルが鎮座する 「特別な場所」として使われていました。 台座のみが残されていました。 2001年(平成13)の閉館時からの この状態のままやったんでしょうね。 なんか物取りにあったみたいです。 天守閣前の広場に このモニュメントの 地下15メートル下に2個埋設されています。 「 特別な場所 」にあった タイムカプセル は、 2001年から博物館機能そのものとともに、 「 大阪歴史博物館 」に移されています。 こちらは… 現在の「 大阪歴史博物館 」の展示の様子です。 階段下のコーナーに置かれていて 展示スペースも「 少しこぢんまり 」… 「貴賓室」の雰囲気が今なお残ります。 天井の縁取りの「 レリーフ 」たち。 そして 「貴賓室」から特別に ポーチへ出ること ができました。 茶色なので「煉瓦造り」のようですが、 レンガではなくて 「 スクラッチタイル 」で覆われています。 間近に見ると風合いがよくわかります。 こちらは当初からのものと思われる 「貴賓室」の細工ガラス。 博物館の雰囲気を伝

大坂城めぐり「豊臣時代の石垣」

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「 謎の石垣 」は現在の天守閣の目の前の 本丸の地下に約7メートル下に眠っている。 ちょっと大きなマンホールを開けたような、 コンクリートの枠に金属の格子ごし… ライトアップされてはいるが、 写真でとらえるのはムズカシイ。 豊臣時代の大坂城の石垣遺構の公開は、 実に5年ぶりなんだという。 見つかったのは1959年(昭和34)のこと、 大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社が、 組織した「 大坂城総合学術調査 」によるもの。 「 大坂城は洪積層の  固い地盤の上に直接築かれている 」 という定説の確認のためのボーリング調査、 地下9.3メートルの場所から花崗岩が発見され、 高さ2.3メートルの石垣が確認されました。 火を受けた痕跡も見つかって、 夏の陣によるものか? との   期待がふくらんだそうです。 現在の大阪城の石垣と比べると 小ぶりの自然石が目立つ 、 いわゆる「 野面積 (のづらづみ) 」と 呼ばれるものでしたが、 発見当初は豊臣期の石垣との 断定はなされなかったようです。 その後、 徳川幕府の京都大工頭をしていた 東京の中井家から 豊臣期の「 大坂城本丸図 」が発見。 詳細の検討の結果から、 発見された石垣が 大坂城本丸「 中ノ段帯曲輪 」のものであると   考えられるようになったとのこと。 大阪城の地とは、 豊臣秀吉の築いた石垣と 徳川秀忠の築いた石垣の二つが、 今なお残る稀有な城郭遺構である         ということ。 そんな 豊臣期の石垣 を間近にみることが できる所が天満橋駅周辺にあります。 「 大阪ドーンセンター 横の石垣」 これは豊臣秀吉の晩年にあたる 1598年(慶長3)に 大阪城の防御強化のために造られた 豊臣時代の大坂城三の丸のもの。 1614年(慶長19)に 大阪冬の陣の講和条件として 徳川家康によって取り壊され、 地中深くに埋もれていたものです。 こちらは「 追手門学院小学校 横の石垣」、 1984年に小学校校舎の 建替立替工事時に発見されたもの。 小学校 の地下には発掘されたままの状態で 石垣が保存されているらしい… 「 日本経済新聞社 前の石垣」 こちらは徳川期の大坂城のもので、 1620年(元和6)に 城北の 惣堀 (そうぼり) に見立てた 旧大和川と淀川との合流点付近の 護岸用石垣なんだそうだが、 植栽が生い茂ってい

大坂城めぐり「乾櫓」

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西の丸の西北に建つ「 乾櫓 (いぬいやぐら) 」。 「戌亥=乾」とは西北を意味します。 徳川大阪城の櫓にはこの他にも 方角を示すものがあと三棟あったそうです。 玉造口付近にあった 「 艮櫓 」 (うしとらやぐら) (北東)と 「 巽櫓 」 (たつみやぐら) (東南)は     明治維新の大火で焼失。 乾櫓の南側にあった 「 坤櫓 」 (ひつじさるやぐら) は、 第二次世界大戦の空襲で失われています。 1956年(昭和31)から 1959年にかけて行われた解体修理の時に、 大棟の輪違瓦 (わちがいがわら) に、 「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ作十郎」との 箆 (へら) 書きが見つかり、 1620年(元和6)の創建が判明しています。 「 千貫櫓 」とならんで今に伝わる 大坂城の城郭建築のなかでも    最古のものになります。 L字形をしている のは 西ノ丸庭園からだとよく分かりますが、 一階と二階ともに同じ広さになっていて、 構造的にも面白く内部のつくりも、 うまく二棟をあわせたように設えています。 鉄砲狭間= 銃眼 は外からは、 漆喰で塗り込められていますが16カ所。 石落し は4カ所あり防御万全の櫓です。 再築なった大坂城に 徳川家光 がはじめて 入城したのは1634年(寛永11)のこと。 大坂の住民に徳川の治世を浸透させるもの、 入城の翌日に、それまで大坂・堺・奈良に 課していた 地子 (土地税)を永久に 免除する宣言をしたのですが、 あらかじめ有力町民に地子免除決定の合図を、 隅櫓から将軍みずから采配をかざす と 伝えられていたのだそうです。 その櫓とは「 乾櫓 」のことです。 乾櫓は大手口と京橋口の二つの 入口をのぞむことができ、 西の高麗橋、東北の京街道を 見渡す所に位置にしていて、 いろんな意味でこの櫓は、 徳川の大坂治世の要 に あったようです。