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京都特別公開2017秋 西念寺

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京都特別公開2017秋  木津川めぐりの ラストは、 西念寺 さんです。 JR加茂駅までも常念寺から、 グーグルマップ検索で行くと、 起伏の多いコース取り(大汗)。 なんとかたどり着いた加茂駅から、 奈良交通の直通バスで… でもバス停からかなりの距離、 最後は「 鹿背山城址 」なる 石碑から急勾配が続きました。 鹿背山城 とは… 中世の山城で、 山の斜面を削ったり、 土盛をして出来ています。 城は武士が作るものという 常識に対峙する存在で、 この城は興福寺が築城したもの。 藤堂氏が16世紀中頃に 大和に侵入したのち、 多聞山城(奈良市)を築城し本城、 西を信貴山城、 東を竜王山城(天理市)、 そして北の拠点を 鹿背山城 とする 四城体制を構築していたようです。 西念寺に残る 『鹿山寺略縁起』によると、 薬師如来 本尊の浄勝寺から、 鹿山寺に改める。 いまは「 鹿山 医王院 西念寺 」 (かせやま いおういん さいねんじ) 。 「 十一面観音像 」 京田辺市の白山神社の神宮寺 法雲寺 にあったもので、 普段は 京都国立博物館 に 寄託されている仏さま。 特別公開で お戻りになっていました。 裏堂 に祀らえる 「 阿弥陀如来坐像 」。 お顔の部分 面相部のみ 平安時代のもの。 裏堂に祀るとは、 「裏にあるお堂」 という意味ではなく、 かつては本尊として 中央に安置されていたものが、 新たな本尊が伝来され、 脇に祀られることになること。 薬師堂本尊「 薬師如来坐像 」 内陣…   周りを囲む 十二神将像 制作年代など まだまだ謎が多いとか… 研究がまたれます。

京都特別公開2017秋 常念寺

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現光寺でバスを降りる時に、 JR加茂駅も常念寺も 「あそこに見えますよ」って、 寺職さんから 教えてもらっていましたが、 かなり距離がありました… ときどき掲げられる 特別公開の赤い目印。 高齢の方はタクシー分乗で、 巡られていました。 開基は寺の記録によると天台系、 盛憲 (せいけん) 上人が開山。 盛憲上人は延暦寺で修行、 「生きているということは  生かされていること。  生かされているからこそ、  守るべきことを  守っていくことが一番大切だ。」 と説かれました。 町並みの南端にあたる 「 廻り道 」にあたると ころに 建てられた 念仏道場 。 木津川にほど近い常念寺は、 物資輸送の重要な拠点。 近くに「 船屋 」とい地名が残り、 往時をわずかに伝えます。 織豊時代は大いに隆盛したとか… 特別開帳の御本尊 「阿弥陀如来立像」 胎内に 泥化した摺り佛 が 発見されています。 伝承の通りこの仏像が、 江戸時代に水に浸かっていた ことを示しています。 江戸中期の正徳2年(1712)8月、 大雨による洪水で付近が水没。 常念寺も被害に遭って 現在地に移転しています。 表面は黒ずみはあるものの、 漆仕上げ は健在でした。 「地蔵菩薩半跏像」 半跏 とは、左足を 座面から おろして座ること。 平安後期のもの。 加茂町兎並の 成徳院 より 移って来られました。

京都特別公開2017秋 旧燈明寺

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現光寺から西念寺に向かう途中、 「 旧燈明寺特別公開 」の 看板をみつけ 寄らせていただきました。 開山は奈良時代 行基 … よくある創建譚ですが、 元禄期の記録によると、 弘法大師の弟子 真暁の開基… こちらもよくある歴史です。 観音寺であったのが 東明寺 へ、 近世になって 燈明寺 となりました。 江戸時代には本堂や三重塔が 修築されるなど寺勢が回復、 しかし近代にはいると衰え、 1962年には廃寺となりました。 ちなみに、 横浜の 三渓園の三重塔 は こちらから移譲されたものです。 こちらが 本堂 で、 同じく三渓園に移築。 「木造 千手観音菩薩像 」 漆箔仕上げで、一木彫成像。   「不空羂索観音像」 「十一面観音立像」     「馬頭観音立像」 「聖観音立像」 不空羂索観音の胎内から 近年の調査で 奉加状が 発見、 徳治3年(1308)ごろの制作だと。 廃寺ながらも五体まとまって、 伝えられています。 地元のボランティアの方々が、 開帳されていました。 「 御霊神社 」 こちらは燈明寺の鎮守社として、 奈良の 氷室神社 の古社殿を移築。 南北朝時代に創建の 三間社流れ造りの檜皮葺 でした。 こちらは国の 重要文化財 に 指定されています。

京都特別公開2017秋 現光寺

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海住山寺から 現光寺 へは、 定刻の文化財保護特別協力号が、 満員になるようなので、 という寺職の方の配慮にて、 お寺のマイクロバスにて・・・ 現光寺までの道路もかなり狭隘。 関西本線のガード近くの 臨時駐車場から民家が立ち並ぶ、 地区をたどります。 木津川市の幟が目印。 現光寺の創建は定かでなく、 記録も見当たりません。 鎌倉期の本尊ですので、 中世には存在していたと思われ… 近世初頭=いわゆる江戸初期は、 荒廃した二間・三間の草庵に 尊像が祀られていただけ。 かなり衰退していたようです。 いわゆる「 無住院 」で 住職が かなり以前から 不在のお寺なのでして、 海住山寺が管理されています。 元禄10年(1697)に再興された時、 海住山寺縁起絵巻 の詞書撰者の 真敬法親王 が落成を賀したとか、 貞慶上人 五百年忌に、 現光寺の住僧が海住山寺に参詣… つながりのもとで歩んできた 歴史が物語っています。 今回 特別公開の御本尊 「十一面観音坐像」 十一面観音像の作例は 飛鳥時代よりあるが、 坐像は比較的珍しい。 檜材の寄木造 (よせぎづくり) 。 髻 (もとどり) の上に仏面を、 髻下部に四面と 地髮 (じはつ) 上に六面の頭上面。 表面は黒漆を塗った上に 金箔を押す 皆金色 像 (かいこんじきぞう) 。 地元の方々により本堂脇に 建てられた収蔵庫へ。 制作に関する記述がないが、 作例として貴重なもの 。 観音様といえば… ほとんど立像を思い出す のでは。 現光寺がは 人が不在 ということもあって、 奈良国立博物館 での保存が 打診されたそうですが、 本尊は寺域にとの、 地元住民の寄付等により、 収蔵庫が造られたそうです。 新収蔵庫は2015年に 新基準にての 改修 完了とか、 地元の熱意がスゴいです。 「十一面観音坐像」は 団体での拝観の希望があれば、 対応してくれるそうです。 今回の特別拝観は現光寺伝世の 木造四天王立像 とともに… 形相と身色が醍醐寺所蔵の 「東大寺大仏殿図」 にみられる 鎌倉再建期の東大寺大仏殿安置の 四天王像と完全に一致するもの。 大仏殿様四天王像 と 呼ばれるものだが、 おそ

京都特別公開2017秋 海住山寺②

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創建は天平7年 聖武天皇が 大仏造立平安祈願のため、 良弁僧正 に命じて建立させ 十一面観音菩薩 を 安置したのが始まりとか… 本尊は等身大の立像 「 十一面観音菩薩立像 」 台座が蓮肉と反花 (かえりばな) のみとなるのは、 造られた平安中期よりも、 前の様式の金銅仏に 近いとみられます。 寺の由緒を伝える仏さま 。 こちらが特別公開の 「奥の院 十一面観音立像」 ふだんは奈良国立博物館に、 この期間だけ里帰りされました。 観音信仰を伝える茶釜。 本堂の前には狛犬 こちらの口には珠が… こちら 文殊堂 … 構造や様式からすると 鎌倉時代後期のもの。 解脱上人伝来の一切経を 安置するために建てられた経蔵。 経蔵には文殊菩薩を本尊として 祀ることが多いので、 この経蔵も経典としての役目を終え、 本尊はそのまま文殊堂と よばれるようになったのでしょう。 本坊 へ 紅葉を愛で… 「明皇撃梧桐図襖」 (めいこうげきごどうずふすま) 玄宗皇帝がバチで梧桐を叩き、 そのリズムと楽人たちの 笛の音に合わせて楊貴妃が 舞う場面を描いたもの。 梧桐とは アオギリ のこと。 今は襖に収まっているが、 もともとは六曲屏風だったようで、 各面最上部に継ぎ紙。 裏面は江戸初期の狩野派の 「 西湖図 」であるので、 おそらくこれも 狩野派の筆 だと 推察されています。 「海住山寺縁起」 貞慶 、夢中にみた補陀落山浄土の 荘厳を屏風に描き写す。 貞慶が所持していた仏舎利、 金色の小仏に表れ、 春日明神となる。 貞慶入滅 前日の夜 青色の月輪現れる。 慈心上人 覚真  出家を許される 貞慶 一周忌の供養 覚真 仏舎利を五重塔に安置 する。 海住山寺を信仰する男が 乗っていた商船難破するも、 観音の名号を称えて救われる。 「町石」 (ちょうせき) 参道に一町(約108m)ごとに 建てられた道標。 単なる道標ではなく、 卒塔婆の意味合いもある。 願いを叶える「 なすのこしかけ 」 なるものがありました。 茄子の花は一つの無駄もなく実を結ぶ また「成す」と語呂が同じところから、 努力は報わ