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いのちどぅ宝の島へ④ ひめゆりの塔

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沖縄で訪れたかった場所 「 ひめゆりの塔 」… 平成天皇が皇太子の時に 訪問された時の映像、 最近よく目にします。 どんなとこなのか? とにかく足を運んでみました。 那覇市から車で約30分、 糸満市字伊原 にあります。 イロイロ調べてみても、 やはりレンタカーが便利、 ということで急遽 前日に予約。 とってもリーズナブルな 料金なのに、 ホンダの ヴェゼル の「れ」。 一人で乗るにはもったいない。 R331 を走ると、 「ひめゆりの駅」に。 クルマを止めて… 入口の 献花販売店 で、 一束200円を求めて。 敷地には ひめゆりの塔 と 平和祈念資料館がありました。 ガジュマルの木を横に 「ひめゆりの塔の記」 ガマを手前に「ひめゆりの塔」 看護要員として戦場に動員、 そして多くの若き命が 失われた「ひめゆり学徒隊」。 沖縄師範学校 と 沖縄県立第一高等女学校 に 通っていた、女学生222名と 彼女らの教師18名。 沖縄陸軍病院 に動員され、 負傷兵治療に力を注がれました。 こちらが最初の「ひめゆりの塔」 終戦翌年の1946年に、 付近の収容所にいた 真和志村民 によって建立。 いくつかの石碑が 立ち並んでいます。 「 ひめゆりの石像 」 静岡県の瓦職人の寄贈、 ただ想像でつくられたもの、 当時の学徒姿とは異なるとか。 学徒隊引率の 仲宗根政善 先生が、 1946年の第1回慰霊祭で 捧げた歌が刻まれる。 「いはまくら   かたくもあらん やすらかに   ねむれぞといのる  まなびのともは」 。 96名中81名が亡くなられた 「伊原第三外科壕」 のガマ、 ひめゆり学徒の最後の地の一つ。 説明板にはガマの断面図… この中に多くの少女たちが ひしめき合って… 塔の背後には納骨堂、 白壁には学徒戦没者の名、 女師・一高女のシンボル、 百合のレリーフ を 手向けられています。 女子師範の愛称は 乙姫 、 一高女は 白百合 だったそうで、 乙姫の「姫」と 白百合の「百合」で 「ひめゆり学園」。 「ひめゆりの塔の記」後面、 校歌が刻まれていて、 一節には 一高女 の 「 色香ゆかしき白百合の 」、 二節「 玉とかがよう乙姫の 」は、 女子師範 のこと。 塔右手奥に、 「ひめゆり平和祈念資料館」。 館内は遺品や、 伊原第三外科壕が 実物大で再現・・・ 撮影は禁止でしたの

いのちどぅ宝の島へ③ 平和の礎

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空と雲…そこに立ち並ぶ 黒い屏風の列 … 沖縄戦終結50周年を期に 建設された「 平和の礎 」。 「平和の礎」 へいわのいしじ と読む。 1989年に編集された 『日本方言大辞典』によると、 いしじ(石地・鹵地)の項、 家の土台や沓脱ぎ などにしてある石 で 沖縄の方言なのだそうだ。 沖縄戦で亡くなられた 24万人余りの名前。 ただこの礎には、 名前さえ刻まれていない 戦没者がおられます。 「○○の妻、長男、次男」 と… 「地上戦による一家全滅」や 「名前をつけられる前に 亡くなった乳児」など。 平和の礎が建設になって、 戦没者の名前特定のため 大規模調査が初めて 行われたのですが、 そこには大きな壁… 無名戦没者 が多い 宜野湾市 と 北谷町 は、 アメリカ軍基地が 占めた地域で、 調査は難しかったとか。 断崖絶壁から海岸線、 海を眺望できる場所に 「 平和の広場 」。 沖縄戦最初の上陸地、 座間味村阿嘉島で採取の火、 被爆地広島市の「 平和の灯 」、 そして… 長崎市の「 誓いの火 」の合火。 1991年に灯し続けられたのを、 1995年6月23日の 「慰霊の日」に移し 灯された「 平和の火 」。 左手に 沖縄平和祈念堂 、 そして 沖縄県平和祈念資料館 。 平和の礎… 「 クワディーサー 」が 植えられています。 コバテイシ(モモタマナ)とも 呼ばれる半落葉性の高木。 沖縄ではよく見る街路樹… 大きな木陰ができる ので、 人の集まる場所には よく植えてあるそうです。 沖縄では古くから、 墓の周辺によく 植えられてたそうです。 沖縄では珍しい 紅葉する木 。 そして 実 は クビワオオコウモリ が 食べに来るとか… 「平和の礎」は、 “平和の波永遠なれ” が コンセプトなんだそうで、 刻銘碑は世界に向けて 平和の波が広がるように!! Everlasting waves of peace

いのちどぅ宝の島へ② 平和の丘彫像

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平和祈念公園には、 慰霊碑が数多く 立ち並んでいました。 すべてを回るには、 ほぼ1日がかり に なってしまうのです。 平和式典ゾーン の シンボルがコレ! 沖縄戦で多くの市民を 巻き込んで、 尊い人命を奪い去る 舞台となった ガマ(壕) を、 具象化したものなのです。 地下と地上のニ層構造、 地下壁には 琉球石灰岩 が 荒積みされています。 地下部分に立つと、 ガマの光景を体現できる… そんな意図があるそうです。 芝生に映えると風景… ふと北の大地を思い出した。 そう モエレ沼公園 、 彫刻家 イサム・ノグチ の 最晩年の作品たち。 ※「ミュージックシェル」 この模型※1は イサム・ノグチさんが、 広島の 平和記念公園 を 設計した 丹下健三 から 依頼されて1952年に 広島市に設計図を元に 作られたものなのですが… 実現には至らずでした(T_T) どことなく、 沖縄の 平和の丘彫像 に 似ているのです。 しかも構想では碑の南側に、 地下へ導く細い階段の 入り口もあったという。 「産道を通って胎内に  戻るようなイメージ」 … オキナワの像の話に戻ります。 完成は 2001年 のこと、 「 黒御影石製 」のアーチが 厳粛な式典を見守る。 彫像の中央には、 琉球石灰岩 の 「要石」 は、 沖縄に見立てた 「平和のくさび」 なのです。 モニュメントのデザインを 手がけたのは福岡県在住の 藤波耕司 さん。 コンペでもイサムノグチの 原爆慰霊碑案に酷似? との意見もあったのですが、 ※2「広島原爆慰霊碑(習作模型)」 イサムノグチの案を 参考にしたのかとの? 藤波氏はイサム・ノグチの 大ファンなのでこの案は周知。 「デザインソースとして参考」 と 自認されていますが、 コンセプトの違いにより、 平和の丘彫像に採用されました。 こちらは「 全学徒隊の碑 」 広い公園内には、 7名乗りの EV電気バス 。 1乗車100円でしたよ。 ※1:2013年に制作された、イサム・ノグチ氏の    慰霊碑案の30分の1サイズ復元模型 ※2:イサム・ノグチ「広島原爆慰霊碑(習作模型)」    (1982年。オリジナルは1952年) ※このブログは中国新聞 『コレクション再発見』イサム・ノグチ 「広島の原爆死没者慰霊碑(