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大阪のはしばしvol.11 瑞光寺のくじら橋

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大阪のはしばし シリーズ2017年以来で 紹介する橋は 阪急電車 上新庄駅 近くの、 瑞光寺の雪鯨橋 (せつげいきょう)。 宝暦4年(1754)に瑞光寺の 潭住 (たんじゅう)禅師が、 南紀太地浦 に行脚したときのことが キッカケとなったクジラ橋。 瑞光寺の寺伝によると聖徳太子創建… 火災で衰微したが、寛永20年(1643)に 僧天然が指月寺として復興し、 白隠禅師 を座主とした。 享保14年に(1729)いまの寺名となった。 大阪メトロ今里線 めぐりをしていて、 瑞光四丁目駅 からたどり着いた寺院。 クジラ橋があるのを瑞光寺 ということを、 すっかり忘れていて石柱を目にして、 思い出しての訪問です。 肋骨 部分なのかもしれません、 クジラの骨の門が現れます。 クジラ橋を渡る手前の広場に 魚のヒレのような骨がいくつか… 第五代目鯨橋の欄干部分で、 肩骨の肩甲骨 にあたる部分です。 現在の第六代目の鯨橋は2004年に 北大西洋の北海道沖の調査捕鯨で 捕獲された イワシクジラ の 下顎骨と肩骨を2005年南極海で 捕獲された クロミンククジラ の 脊髄が使われています。 最初に鯨橋が紹介されたのは、 天明3年(1783)の『 浪花のながめ 』 「瑞光寺の地内に勇魚(くじら)の骨にて  作れる橋。渡り一丈四、五尺あり。  当時より廿(にじゅう)ヶ年来前、  紀州熊野浦より奉納せし異物なり。  鯨のあごにて橋の欄干、橋板を作る。  踏み渡るところは、朽てなしよって、  石にて作る。  欄干の中の橋は鰭の骨にて作る。  是を 雪鯨橋 という。  世の類いなき珍しきながめなり」 クジラ漁を生業とした海岸部では 供養の塚や塔などがあるが、 漁と直接関係ない都市にあるのは 珍しく、消費地と産地を結ぶ 象徴的な存在との評価されています。 古来より鯨を余すところなく 利用した日本人のこと『 翁草 』 という安永五年(1776)の書物には、 捕獲した鯨は私心なく、 村民に分け与えられそうで、 村全体を潤してくれた鯨は、 村人と同じように墓をつくり 丁寧に弔われたとあります。 宝暦4年(1754)のこと 不漁に泣く南紀太地浦、 村長 覚右衛門らの豊漁祈願の 依頼をうけた禅師。 仏の道には殺生は禁じらており 何度も断った そうですが、 懇望により祈願したところ… 村人は大漁にわきあがったの

浦賀の湊てくてくvol.3 西叶神社

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西浦賀の鎮守に 西叶神社 は、 東と区別のためそう呼んでいますが、 本来は 叶神社 が正式名称です。 「 平家物語 」に登場の 文覚上人 が、 源氏再興を願い 房総半島の 鹿野(かのう)山 に修行し、 もし自分の大きな願いが叶えられるなら、 よい土地を選び神社を建てると誓いました。 養和元年(1181)に 頼朝ゆかり の 千葉 鹿野山の対岸である 西浦賀の地が選ばれ、 石清水八幡 を勧請しました。 文覚上人は 鳥羽天皇 皇女 に仕える 北面の武士でしたが、 出家ののち諸国霊山を修行う、 後白河法皇 への荘園寄進強要され、 平氏嫌いであったことが、 源氏挙兵へのキッカケ とも伝わります。 現在の社殿は天保13年(1842)再建、 社殿の彫刻はいまの 千葉県 安房国 の 後藤利兵衛 の若い頃の作で、 その後鎌倉幕府の彫刻師として 雇われた人だそうです。 拝殿向拝の格天井には、 二十八態の龍 、 一つとして同じ構図ではありません。 その龍の間に日本に未渡来であった 花鳥たちが華やかさを添えていました。 拝殿中備のと左右側面の 海老虹梁 上の 合わせて 五態の龍 は迫力があり、 側面前左右の肘木には 「 枇杷 (びわ)に 木兎 (みみずく)」 拝殿向拝正面の肘木左右に「 笹と雀 」 左右側面にも装飾蛙股 社殿右手に立つ" 昭洞香山君碑 "、 嘉永6年(1853)の ペリー来航 のとき、 中心となって交渉にあたった 浦賀奉行所 与力 の 香山栄左衛門 は、 幕府責任者との交渉を望みに対し、 自らを「 浦賀奉行である 」と 偽り交渉にあたったそうです。 アメリカ側から信頼された香山は、 無事に親書受理が終わると、 黒船の中で歓待を受けたとか… 親交を深めすぎたことで、 周りの反感を買ってしまったとか。 浦賀には「 ペリー 」を 冠した看板が多く叶神社の境内地にも ペリー歯科 なるものあり… ただ…" ペリー上陸記念碑 "が立つのは、 浦賀ではなく横須賀市久里浜 なのです。 浦賀の湊は周囲は山に囲まれていて、 船を監視するのにも都合の良い地。 江戸の防衛拠点ではありましたが、 ペリー記念館 へは浦賀駅ではなく、 京急久里浜駅 からバス… はじめはペリーの足跡を訪ねるつもりが、 2つの叶神社参り となりました。

浦賀の湊てくてくvol.2 浦賀海道の渡船

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享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」に、 「 渡船の修理 の折りには、  鴨居村、走水村、内川新田、八幡村、  久里浜村も東西浦賀村と  相応の協力をすること、  船賃は村中のすべての家で  一軒あたり米六合づつ」とあり、 当時の渡船の2隻で2人の船頭 が 担っていたと思われます。 明治11年(1878)浦賀町の17町内会が 共同で渡船経営に乗り出したことで、 就航を朝6時から夜10時までと定め、 公営交通 としてとなりました。 現在の船は、1998年8月8日就航。 強化プラスチック製の 御座船 客席定員は12人 乗り場に客が来れば対岸にいても すぐ来てくれます。 横須賀市民は200円ですが、 一般は400円でワンデイパスは 大人600円で乗船できます。 浦賀が江戸湾防衛の最前線となったころ、 商人や文化人は親類縁者を頼って宿泊、 ただ宿場でなかった浦賀に、 船乗り以外の旅人を宿泊できず。 身元の確かな人に限り、 村名主に頼むと泊まれる家を紹介、 そこに宿泊することが許されたとか。 文化8年(1811)に旅籠の許可を得たのが、 東浦賀の 徳田屋 さん。 桜田門外の事件の日、 徳田屋に泊まった房総からの客を 「明朝の取調べが済むまで  止めておくように」との 指示がありながら出発させたとか。 番所の「船改め」を受けなかった らしい。 房総半島へ直行できる船便 を 持っていた徳田屋、 徳田屋で飲食することは 庶民の憧れでもあったとか。 浦賀湊に漕ぎ出した船から 芸者さんの弾く三味線と太鼓の音、 「 得だ・どくだ 」と聞き取れたとか。

浦賀の湊てくてくvol.1 東叶神社

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横須賀から足をのばして 浦賀 へ… ずいぶんと時が過ぎていますので、 薄らぐ記憶を頼りに… 京浜急行 の浦賀駅は実は本線の終点、 堀之口駅から快特が向かう 久里浜線 の方が本数が多いのです。 駅前から京急バスで3停留所「新町」、 1.3キロくらい歩くと直進の↑。 裏山に明神山、 『新編相模風土記稿』に 「拝殿は山下にあり、祭神は 応神天皇 で、  正保元年(1644)9月19日に  西浦賀の本社を勧請。  牛頭天王、船玉明神を合祀」 石段を上がると神社としては 珍しい 蘇鉄 が青々と葉を広げています。 源頼朝 が縁深い伊豆に由来するもの。 奉納されたと伝えられているもの。 東叶神社を創建した 文覚 は、 流人時代の頼朝と親しく、 平家討伐を促した のは文覚とも。 神社の縁起によると養和元年(1186)、 源氏再興の願いが叶えられたので、 叶明神 と改めたとされています。 元禄5年(1692)に浦賀村が 東と西に別れたとき、 西浦賀の叶神社を遷し、 西を本宮、東の叶神社を若宮 と呼んだともいわれています。 石の鳥居は浦賀湾に面しています。 鳥居のそばに 日西墨比貿易港之碑 。 西墨 とは スペイン領メキシコ のこと、 慶長5年に上陸した 三浦按針 こと、 ウイリアム・アダムスを顧問とし、 元和2年(1616)に貿易港が 長崎・平戸 に限定されるまで、 浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の 国際貿易港がったことを伝えています。 社務所前を通り過ぎると、 弁財天が祀られています。 厳島媛命 がご祭神で、 海難などの身代わり弁天です。 その傍らには 耀真山永勝不動 尊の幟、 東叶神社は明治の 神仏習合 までは、 耀真山永神寺 といい、 古義真言宗 醍醐寺派三宝院 に属し、 本山格をもつ修験道の寺院でした。 歴代の宮司は 真言宗大僧都 、 真言修験の大先達を兼ねていました。 勝海舟断食修行の折仕様の井戸 から 汲み上げられた水とか… 遣米使節随行の咸臨丸艦長格の 勝海舟が航海前に、水垢離の後、 山上で断食したと伝わります。 ただ… 多忙な時間的余裕があったのか、 船玉明神への祈りに切実な思いが あったことは間違いないのでしょう。 本殿前の阿形は子が乳を含み 吽形は親が子を抱える姿 拝殿の左側に山頂に続く石段。 もう少し上れば 芭蕉の句碑 が あったそうです。 恵仁志坂 とあり 西叶神社