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京の夏の旅2014〜祇園閣③

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祇園閣 の続き... しばらくぶりです(・ω・)v 大雲院は 織田信長・信忠 の菩提を弔うために、 開山されたものなのだが、 烏丸二条南から伽藍が遷されているので... 境内にある墓なるものは、 モニュメントのようなもの なのでしょう。 実は信長の墓所は30近くあり... 本能寺の変の報を聞き住職がかけつけて、 裏手の藪で火葬したあと埋葬したとされる 上京区寺町通今出川上ルの 「 阿弥陀寺 」とか。 信長の一周忌の法要ために、 秀吉が建立したとされる 大徳寺の塔中の一つである 「 大徳寺総見院 」などなど... ここ大雲院も その一つということでございます。 もうひとつの有名人の墓もここに 一説によると、 秀吉暗殺を画策 し、 捕縛されたともされる人物がなぜ? そもそも一介の盗賊が天下人を 暗殺したかったとは思えませんが... 五右衛門と大雲院のかかわり... いわれているのはこんな感じなのです。 当時の大雲院は処刑場までの道筋である 四条寺町にあって、引き回しの道すがら 大雲院の 貞安上人 に出会ったとか。 自ら自分を弔ってほしいと 懇願したことによるとか。 処刑後つけられた五右衛門の戒名ってのも、 ちょっと不思議なのであります。 「 融仙院良岳寿感禅定門 」って戒名、 寺や社会への貢献を称えている字が並ぶ。 ミステリアスなスポットでもあります。

京の夏の旅2014〜祇園閣②

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祇園閣の「 大雲院 」は1587年(天正15)に 正親町天皇の勅命により、開山されたもの。 天正年間の頃は 寺町四条南 にあったが、 周辺が商業の地となって、 この地に移ってきたとか。 創建400年の1987年に記念事業として、 祇園閣の修復が施されたのである。 仏教文化の隆盛と日中友好の一助と なればとの 願いから、 描かれたのが 敦煌壁画の模写 なのである。 敦煌莫高窟の壁画の模写は、 北魏より隋、唐、五代、宋、元の 各時代が網羅されている。 「249窟 アスラ神(西魏)」 アスラ神は護持八部衆の一つ。 背後に須弥山、宮殿も描かれる。 現地に行ってもこれだけの壁画を 見て回るのは至難の業だという。 それぞれの有名な個所がズラリ… まさにエエとこどりなのである。 「272窟 脇侍菩薩(北涼)」 敦煌窟のなかでも かなり早期に描かれたもののひとつ。 もともと祇園閣に祀られている 阿弥陀仏の脇侍を彩っている。 「254窟 “捨身飼虎の図”(北魏)」 あの 法隆寺玉虫厨子 にも描かれた図案。 飢餓に苦しむ虎の母子を見て 自身を与えようとする物語。 「182窟 観無量寿経変相図(盛唐)」 「159窟 “吐蕃王図”(中唐)」  当時ここを占領していたと言われる 吐蕃賛普(君長)の姿が描かれています。 「3窟 千手千眼観音菩薩(元)」  観音菩薩を題材にした現存唯一の窟壁画。 縦長である壁面に応じて、 左右にある 吉祥天 と 婆藪仙 (ばすうせん) は 下方部に描かれている。 普段...いや… きっと莫高窟には行けないだろう 。 良い体験をさせてもらいました(・ω・)v ★壁画はパンフレットより転載★

京の夏の旅2014〜祇園閣①

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「京の夏の旅」... もうひとつは「 大雲院 祇園閣 」。 京都の八坂神社よりもやや下(しも)、 ねねと秀吉のお寺「 高台寺 」周辺にほど近い。 祇園を見下ろす異様なフォルム。 もとは大倉財閥の創始者である 大倉喜八郎の別邸 だったそうです。 高さ36mの三階建て、 祇園祭の鉾をかたどった造り。 1928年(昭和3)に 「 祇園祭の壮観を常に披露したい 」 との願いから山鉾を模したのだそうです。 閣上からは京都の町が一望できましたが、 外の景色も含めて撮影禁止だったのです。 建物は建築家・ 伊東忠太 の設計によるもの、 鉄筋コンクリート造三階建で36m、 地下の基礎も深さ30mにおよぶそうです。 大倉喜八郎は「 銅閣を建てたいという夢 」の 産物でもあるそうです。 喜八郎のオーダーは 「 雨傘が逆さまに開いたイメージ 」… さすがに伊東忠太は困難だと断ったとか、 その代わりに提案したのが祇園祭の鉾の形。 ただ銅閣としての思いは捨て切れず... 屋根は銅葺き になっていおります。 内部壁面は開創400年を記念の 敦煌の壁画の模写 が奉納されておりました。 内部はパンフ写真を交えて次回にお送りします。

世界遺産・石見銀山へ⑤ 五百羅漢へ

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石見銀山でひときわユニークな場所、 石窟「 五百羅漢 」。 お目当てのひとつはココ!! 銀山で働いて亡くなった人々の霊や、 わたしたち祖先の霊を供養するためにと、 地元の人々、大森代官所の役人、 そして八代将軍 吉宗の次男 田安宗武 (むねたけ) の援助で 田安家奥御殿の女中など 多くの人々の寄進によるもの。 完成には25年を費やし、 1742年に発願されて、 ようやく1766年(明和3)に 完成したものです。 羅漢像は現在の 温泉津町 (ゆのつちょう) 福光 (ふくみつ) の 石工 坪内片七 と その子および一門のてによるもの。 写真撮影ができませんでしたので、 HPから転載 してきます!! さまざまな表情とその姿勢。 当時の人々はここにお参りすれば、 亡き父や母、わが子の面影にあえると... 「五百羅漢」とは、 お釈迦様に従っていた 五百人の弟子のこと。 世間一般の感情や欲情は 超越しているものの、 菩薩の境地には達せず 我々人間と仏との間の存在です。 石窟の前を流れる 銀山川の支流に架かる 反橋 。 石を組み合わせて造られたもので、 当時のままで今に伝わっています。 この地の水は名水として名高く。 五百羅漢がおられる前からここを湧く水で、 「 三百水 」という名で親しまれています。 当時の人々は水を桶に担いで銀山に 売り歩いたのだとか... 「 一荷三百文 」なのでその名があります。

世界遺産・石見銀山へ③ 西性寺

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大森地区の高台にある「 西性寺 」 (さいしょうじ) 。 1465年(寛正6) の創立と伝えられる寺院だが、 もとは天台宗龍泉院、 のちに西善坊と 称するようになったとか... 山門をくぐって 左手奥にある経典を納める蔵には、 その四面の壁に鳳凰・牡丹・菊をあしらった 「 鏝絵 」 (こてえ) というのがあります。 大正時代中頃に「左官の神様」と尊敬された 松浦栄吉  が 還暦を迎えたころのものだと... 壁と天井の境の飾りである 「 蛇腹 (じゃばら) 」という左官技術だったのです。 彼は英国で習得した腕を買われて、 日本に呼び戻されたのだそうです。 大阪の郵政管理局や 下関の山陽ホテルなども 手がけたと伝わります。 西性寺にこれがあるのは、 彼の菩提寺であるから... 本堂は1739年(元文4) の 再建。 本堂の木鼻... 獅子 の表情がオモシロイ。 こちらは阿形かな? 実は木鼻の上に、 「弘化4丁未七月 作者荻原村 船原廣兵衛  六十歳調之 施主銀山方御役人  河島三郎右衛門妻 御クミ」と彫ってあるとか... 施主が奥方というのも興味深い お寺です。