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とおった!おおさか東線〜城北公園通駅

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とおった!おおさか東線… 最終回は「 城北公園通駅 」です。 新駅間では一番距離の長いのが、 野江〜城北公園通間で2.2km。 「 与謝蕪村生誕の地 」… 松尾芭蕉 と双璧を成す 江戸時代の俳人・ 与謝蕪村 。 改札口を出ると蕪村の胸像、 画家としても有名、 池大雅 とならんで 文人画の大成者… 実は本業は画家、 生活の礎は絵を描くこと… 大きく「 蕪村口 」と 掲げれています。 駅名をめぐって、 一悶着あったそうです。 旭区と都島区とちょうど その境目に位置 してて、 旭区住民は北側を通る 道路に因むべきと主張! 一方、 都島区 の住民は、 「 蕪村生誕駅 」などを 要望したのだそうです。 「蕪村通り商店街」会長は、 「10年も前から 『蕪村』を駅名に 入れるよう要望してきた」 といまだ諦めきれない様子とか。 ただ「蕪村口」とした JR西の配慮に、 商店街入り口に 祝いの横断幕を掲げたそうです。 ただ…当の蕪村本人は、 ここが出身地と、 知られたくなかったとか。 蕪村研究する関西大学の 藤田真一 教授によると… 「蕪村はたびたび  大坂の知人を訪ねています。  三十石船なら毛馬を通るので、  下りて立ち寄っても  よさそうなものです。   やはり何らかの理由で  離れざるをえず、  思いがありながら  帰れなかったのでは 」 62歳の作『 春風馬堤曲 』 「やぶ入いりや  浪花なにわを出いでて  長柄川ながらがわ  春風や堤長うして家遠し」 奉公に出た少女が、 母と弟がいる家に 里帰りする道すがらの描写。 自らの出身地について 多くを語らなかった蕪村。 その例外も『 春風馬堤曲 』に 「馬堤は毛馬塘也則  余が故園也」。 もう一つが書簡の中 「幼童之時、  春色清和の日ニは  心友どちと此堤ニ  のぼりて遊び候、  水ニは上下の船アリ、  堤ニハ往来の客あり」と… 作品の制作意図を 打ち明けたものと、 解されています。 「 旧淀川の風景 」の モチーフタイル、 水面に浮かぶ渡し船、 そして城北公園といえば、 菖蒲 です。 駅舎の庇のデザインも、 渡し船風 にしてるとか。 こちらの右のガラスにも、 うっすらと菖蒲の花が 描かれています。 蕪村口と反対の 城北公園方面の街灯にも、 「 蕪村通り商店街 」 地元で有名なソフトクリーム、 「 赤一かどや 」さ...

蕪村のふるさと②〜蕪村公園

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「 春風や 堤長うして 家遠し 」 淀川堤防上にある 蕪村句碑と生誕地の碑。 『 春風馬堤曲 』にある句は、 自筆を拡大して刻まれています。 初代句碑は 地元有志のものだったのですが、 淀川改修工事で一時的に 取り除かざるを得なくなったのを、 復活したのは1978年2月のこと。 ちなみに生誕地の碑は、 1979年3月に 大阪市が建てたもの。 蕪村は生前自らの出身地について ほとんど語らなかったそうです。 ただ唯一の例外… 「 馬堤は毛馬塘也則   (つつみなりすなわち)   余が故園也。 」の言葉。 ちなみに 毛馬 という地名は、 天正年間に織田氏がこの地に 毛馬城を築き布陣したこと、 古くは雑草の茂る毛志島と呼ばれ、 それがなまって毛馬???とか。 毛馬閘門の手前にひろがる 蕪村公園 には蕪村の句碑が並びます。 いくつかを・・・ 「 なの花や 月は東に 日は西に 」 訪れた頃… 紅梅が咲き誇っておりました。 「 春の海 終日のたり のたりかな 」 ついうとうとと気持ちよく 眠ってしまいそうな風景で 浮かんだ一句なのかもしれません。 こちらはボケの花。 「 鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分哉 」 保元の乱の時、 崇徳上皇は鳥羽殿にあって 兵を挙げたが、 その鳥羽殿へ味方の兵が 馳せ参ずるさま。 「 夏河を越す うれしさよ 手に草履 」 「 夕風や 水青鷺の 脛をうつ 」 夕風が吹いている。 川面に青鷺が立っている。 夕風に吹かれて川は少し波立ち、 青鷺の脛 (はぎ) を 波がしきりと打っている。

蕪村のふるさと①〜駒繋の樟

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虎次郎が住むオトナリの区  都島区の広報誌の 新年号の お猿さん。 与謝蕪村 筆による 「 猿鹿図 」 (さるしかず) 。 ぶらりと過ごした、 初春の地元史跡探訪を綴ります。 谷町線 都島駅の地上にある 農業用水門。 その昔は 「かすがえ」 という名の地だったとか… 淀川の水利に恵まれた 田園地帯のシンボルとして、 再現されたものです。 こちら 楠玉神社 さん。 日本製紙㈱都島工場・ 日本板紙㈱大阪工場の 守護神として祭祀されていたのが、 櫻宮御旅所の一角に遷座されたもの。 「 駒繋楠 」 (こまつなぎのくすのき) 。 源頼光 の四天王の一人で、 善源寺荘とよばれる荘園の管理を 任されていた 渡辺綱 が、 この神社に詣でるとき、 いつも馬を繋いでいたからとか。 大阪府の 天然記念物、 大阪府第1号の指定 は、 この樹齢900年の樟。 ただ… 残念なことに戦災にあって いまは枯氏状態になってます。 頼光は長徳年間(995〜998)に 八幡大神を祀ったのが神社の創建。 樟はそのときに、 自らが植えたのだとか… さらに北へ向かうと、 遊歩道に架かる橋。 その名も「春風橋」。 そして「 淀川神社 」へ 社伝は定かでないのですが、 平安時代の初めごろにいた 淀川河口の海賊を取締るため、 武士が配備されたそうです。 全国の名だたる守護神として 祀られた数から、 「 十五神社 」との名がありました。 与謝蕪村が生まれたころには、 毛馬町4丁目あたりにあった 「 八幡神社 」とともに、 近くには二社が鎮座していたとか。 祭礼には幼少の頃に なれ親しんだと想像されていて、 村人たちの心の拠りどころ だったと伝わります。 2015年よりはじめられた    「淀川神社絵馬」。 「 菜の花や 月は東に 日は西に 」 蕪村の俳句の 裏に、 俳句と願いごとを書くそうです。 ところで 蕪村の生家 は何処に… 答えは跡形もなく淀川に埋没し、 深い川底に沈んでいるそうです。 明治政府が行なった 「河川大改修工事」。 川幅はもとの10数倍となって、 浅かった河の深さも5メートルの 巨大河川に変容しました。 蕪村生誕家の後継者の思しき人も、 「お寺も埋没し 「過去帳」もないために、 ...