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きりしまゆ⑧ 嘉例川駅

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二日目は鹿児島へ移動… その道すがら 肥薩線 の「 嘉例川駅 」へ 元は 鹿児島本線 だったそうで、 現在の鹿児島本線全通により 線名は肥薩線と改められた。 かつては木材運搬で栄えた。 ただ無人駅ながら 特急「 はやとの風 」も 停車する人気の駅なのです。 営業開始日… 明治36年(1903)年1月15日。 桃井かおり さん と 竹下景子 さん。 プラットホームに出ると、 遠くまで一直線に伸びる線路。 そびえる遠くの山間に 吸い込まれていく平行線。 切妻造、平入で、外壁は真壁と 下見板張になっています。 北側のプラットフォーム上屋。 西半に事務室 東半に待合室が配されています。 かつては… 国分基地  ※、 今の鹿児島空港への索道が のびていたそうである。 2015年11月ごろから 棲み着いているという 「 ニャン太郎 」は不在。 2016年には「 嘉例川観光大使 」 になっていたようですが… 無人駅だから名誉駅長とは ならなかったようですが、 その大使も今は不在(T . T) 駅前の公園には 濃いピンクの桜が 咲き誇っていました。 ※国分基地とは?  出水海軍航空隊国分分遣隊、国分海軍航空隊を経て  1945年に特別攻撃隊の基地となった。  第一基地(現陸上自衛隊国分駐屯地付近)と  第二基地(現鹿児島空港付近)から特攻隊として  出撃して亡くなった人は計427人。  基地機能をそぐため米軍はB29などで爆撃した。

岸和田モダンをあるく〜蛸地蔵駅

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「岸和田モダンをあるく」 ラストは… 帰りしなに南海電車に乗った 本線 蛸地蔵駅舎 です。 大正末期に建てられた、 屋根が折れ曲がった妻面を 正面と左右に見せる洋風駅舎。 見どころは ステンドグラス 。 戦国時代に岸和田城主と 根来・雑賀衆の 岸和田合戦 が描かれています。 岸和田城は根来・雑賀衆に 攻められ落城寸前に、 その時、大蛸に乗った一人の法師と 数千の蛸 がどこからともなく現れ、 凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、 城の危機を救ったというお話。 その数日後、 城の堀から矢傷・弾傷を 無数に負った地蔵が発見され、 城内に大切に収められました。 こちらが… 岸和田南町の「 天性寺 」に伝わる 「 蛸地蔵(聖地蔵尊)縁起絵巻 」。 見れるのは年に一度の 蛸地蔵「 千日大法会 」だけとか… ちなみに「 蛸断ち祈願 」という、 このお寺らしい願の掛け方。 お地蔵さまに願いが届いて、 ご多幸に恵まれる?? のやもしれません。 天井の照明に テラコッタ。 壁には陶板画がありました。 下り線の駅舎はこんな風でした。 「南海蛸地蔵駅舎」 建築年:1925年(大正14) 設計 :南海電気鉄道

奈良じゃろの〜① JR奈良駅

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2代目の駅舎の 旧JR奈良駅 。 鉄筋コンクリート造2階建て、 いまは周辺の高架化工事のため、 2004年5月に 曳家方式 で、 北へ約18メートル移動され、 奈良市総合観光案内所 に。 奈良駅の初代駅舎は ” 三条のすてんしょん ”と 呼ばれていたそうです。 頭頂部に 相輪 があり、 その上には水煙もあります。 実はこの相輪、 寺院側から反対の声! 設計者らは県や文部省に訴え、 ようやく説得にこぎ着けたそうです。 平行垂木の四隅には 風鐸 もあります。 1934年に誕生した駅舎の設計は、 大阪鉄道局にいた 柴田四郎 が考え、 基本部分は 増田誠一 の手によるもの。 1930年に外国人観光客の誘致を 目的として鉄道省は、 国際観光課 なるものを 設置したそうです。 奈良駅の改築も洋風建築の構造に 和風スタイルを加えるってのが、 コンセプトだったと伝わります。 和洋折衷の流行りを追いかけず、 あえて和洋を取り込みました。 増田誠一は自らカメラをとって、 奈良建築を徹底的に探求したとか。 法隆寺の宮大工にも 教えを請ったとのエピソードが のこっています。 設計者の 柴田四郎 はこう記しています。 「千二百年の古都奈良市の表玄関として 単なる在来の所謂洋風建築を避けたい との意向が各方面に多かった事は 私も最も首肯出来る事でした。 しかし私は大都市のシティーゲートは 絶対に耐震耐火構造で なければならないと考えて居ります。」… 屋根瓦は今は黒瓦ですが、 完成後30年間は スパニッシュ瓦 でした。 大きな雨返しが付いていて、 雨漏りしにくいのが特徴。 瓦の色は ヴィリジアン 、 奈良とゆかりの 深緑色 。 1964年に床タイルの張替え、 屋根瓦の葺替え等修理工事。 そこかしこに当時からの雰囲気を、 漂わせています。 中に入ると朱塗りの柱が出で立つ。 平城宮跡の「 第1次大極殿正殿 」 復元の際に作られた柱と組物、 見事に再利用されていました。 中央には折上格天井に照明。 いつもは必ずと言っていいほど 近鉄で向かうのですが、 ...

堺の街並みを往く〜諏訪ノ森駅

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浜寺公園駅のひとつ難波よりの駅 「 諏訪ノ森駅 」、 平屋建ての小規模な駅舎だが こちらもとっても秀逸なのです。 1919年(大正8)の建築ですが、 現在は上りの駅舎は 西駅舎として使われています。 48 ㎡程度の建坪と小さいながらも、 まさに“ 諏訪ノ森 ”のシンボ ルとして、 地域に溶け込んでいます。 白砂青松の松林から続く海原の彼方に、 遠く 淡路島が描かれた 5枚組 ステンドグラス 、 入り口上方の窓にはめこまれていて、 かつての海岸の様子が描かれています。 当時この辺りは 船尾村 と呼ばれいたそうですが、 村社としてかつて存在していた 「諏訪神社」が 駅名の由来だとか。 線路側の高い位置にはステンドグラスのと、 ほぼ同じかたちの窓が設えられていまして、 外観的にはバランスが保たれています。 プラットホームはもともとは「 島式 」、 ホーム両側が線路に接する形式だったのですが、 下りホームの幅員を広くするため、 1966年(昭和41)に下りホームのみですが、 難波よりに約60メートルずらしたのだそうです。 今は西駅舎から下りを利用する場合は、 踏切を渡って反対ホームに行くことになっています。 南海本線は関空開港も伴って、 特急電車の高速運転が進んできており、 かねてから高架化が望まれていました。 高架駅が出来て、 愛着の駅舎がなくなるのでは、 との心配もありましたが… 高架後は現駅舎は地域のシンボルとして、 新駅舎と離される位置に、 配置されて活用されるそうです。 券売機の横には2人掛け程度の 小さな待ち合い空間が作られています。 左右に立つ柱は 上にいくほどに細くなっています。 頂部は薄い板で押さえられて、 その下にはめ込まれた正方形の飾りから、 リボン上の飾りが垂らされているという、 凝りに凝ったツクリは紛れもない、 19世紀末に流行していた セセッションスタイル ※。 時代の余裕さが醸し出されていて、 大正ロマン の風を今に吹かせていました。 「南海諏訪ノ森駅 西駅舎」 建築年:1919年(大正4) 構造 :木造1階建て 設計 :南海電気鉄道 所在...