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よさこい参の巻 高知城へよっしゃあ こい

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よさこいって「 夜に来て 」という意味? もう一つは、 山内一豊がこの高知城築城のとき、 人夫たちがが「 よっしゃあ、こい 」 と声をかけ合っていたのが、 「 よさこい 」になったっていう説。 関ヶ原の戦いの功績が認められた 山内一豊 、 大高坂山に新城の築城工事を始めたのは 慶長6年(1601)のことでして、 本丸と二ノ丸が完成をまって、 入城は慶長8年(1603)になってから。 一豊の騎馬像は、 実は国内最大クラスなんだそうです。 大きな櫓の上に小さな望楼が載る、 初期の天守のカタチを引き継ぐ 望楼型天守 といわれるものです。 天守最上階にある 廻縁高欄 は、 初代藩主 山内一豊の先の居城 「 遠州掛川城 」を模して 造ったといわれるもので、 当時の四国では唯一の様式でした。 一豊時代のものは、 享保12(1727)年の大火で焼失、 寛延2年 再建のものが伝わります。 一豊といえば、 NHKの「功名が辻」が思い出されます。 千代の像 もありました!! 高知城の石垣は、 近江の技術者集団と言われた 穴太衆 (あのうしゅう) の手によるもので、 雨の多い土地柄に配慮されており、 崩れにくく排水能力も高い 野面積 (のずらずみ) が多くみられます。 天守も追手門も現存する城郭は、 実にみどころが多いのですが… 石垣には技術力の高さが感じられます。 カギ状に曲がる石垣は「 横矢掛り 」と呼ばれ、 死角をなくしてどこからでも弓矢を 敵に浴びせられるような巧みな仕掛けです。 丸、三角、四角の「矢狭間」もあって、 防御力の高さは目を見張るものがあります。 欄間彫刻などの優美さは、 山内家の威信をかけた城だったことを 伝えるものなのだと思います。 土佐山内家の家紋「 三ツ柏 」は、 岩崎家の家紋「三階菱」とともに、 あの三菱の スリーダイヤ・マーク 、 そのルーツの九十九商会が 船旗号である三角菱のものだとか。 大手門には自由民権の父である 板垣退助 の姿もありました。

松江のお城をたずねる旅

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“松江城”ってのは 国に 現存している12天守の一つ 。 山陰では唯一の天守閣を持つ 城郭史跡なのです。 明治維新のあとの「 廃城令 」がでたあと、 1875年(明治8)に広島鎮台は、 松江城諸建造物と三の丸御殿を 民間に払い下げることを決めるのです。 「城郭まさに無用の贅物に属し、 現今の実用に供しがたき」 ものとして、 松江城の廃城が決まっていたとか。 天守閣も当時180円で落札されたそうですが、 瓦も柱もほとんど廃材となるとのこと。 そんななかで、 「 松江に城を残そう 」と踏ん張ったのが、 地元の豪農であった大庄屋の 勝部栄忠 さん と その息子の 勝部景浜 さん。 そして、銅山を経営していて 勝部家と親しかった元藩士で、 銅山方役人の 高城権八 さんなのです。 松江開城は 堀江吉晴  公で・・・ 関ヶ原の戦いののち、 出雲・隠岐を拝領した忠氏とともに 広瀬にある富田城にはいったのだが、 適地を求めたところが この“松江”だと伝わります。 こちらはその後の藩主・ 京極忠高 。 寛永期1634〜1637年の 4年間の治世とか。 そのあとは 大坂冬の陣 で 徳川の治世の地となり、 結城秀康の第三子で 徳川家康の孫にあたる  松平直政 が この地を受け継いだことにより、 その後 葵の御紋 が明治維新まで、 この松江に掲げられたのである。 お城の近くにある「松江歴史館」には、 さまざまな資料が展示されていました。 LEGOもありましたよ(・ω・)v なかなかの出来栄えでした!! 堀川遊覧船とともに観光地・松江には、 衣食住の豊かさに支えられ、 文化的にも安定した時が刻まれています。  松江とには茶道の独自の歴史があります。 松江藩七代藩主 松平治郷 は 不昧 (ふまい) と 名乗って、自ら「 不昧流 」を興します。 茶会で使われた和菓子の数々は、 「 不昧公好み 」として 今に受け継がれています。 松江歴史館内の「 喫茶きはる 」さんで、 松江の和菓子を頂きました!! 現代の名工 伊丹二夫さんの和菓子です。 これは「 出雲なんきん 」っての。 ランチュウ系統の品種で 県の...

鳥取城址の洋館〜仁風閣

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鳥取城址の一角にある「仁風閣」... そういえば最近ゆるキャラないと 話題になってる鳥取城址の マスコットキャラクター 「 かつ江(渇え)さん 」。 城址にはこんな豪華な洋館が 出で立っておりました。  ここは「 県立鳥取西高等学校 」にほど近い。 県のナンバーワンの高校とかは、 お城のなかに建てられていることが多いのです。 なぜなら城は地元の人にとって身近な存在、 日本人は城から多くの影響を受け、 また人を育ててきたのも城だったから… これは鳥取城の 太鼓御門 があったところ... 日本の城の多くは明治維新時に 壊されてしまっているが、 新政府になっても地理的にも政治的にも、 ”まち”の中心的位置を占めているには違いない。 石川県立小松高校や兵庫県洲本高校、 大阪府内高槻市にある 「 槻の木高等学校 」も、 高槻城跡に建てられている。 城門や天守閣が校舎の一部ってとこもある。  石垣の横の 茂みからのぞき込むと、 白亜の洋館が... 1907年(明治40)にのちの 大正天皇 が、 山陰地方を行啓されるのにあわせて、 その宿舎として建てられたものです。 フレンチ型ルネッサンス様式 が 基調。 鳥取池田家の第14代当主 池田仲博侯爵が、 宮内省匠頭であった 片山東熊 (かたやまとうくま) に 池田家の別邸として設計を依頼したもの。 現場の指揮を執ったのは片山の後輩で、 鳥取市出身の 橋本平蔵 (はしもとへいぞう) 。 仁風閣に灯ったのが、 鳥取県下ではじめての電灯で、 山陰の地への文明開化の到来の 象徴でもありました。 正面は セグメンタルぺディメント である 「櫛形破風」の棟飾り。 寄棟造りの瓦屋根には、 ルネッサンス様式にみられる 王冠型の棟飾りに、 6つの煙突と円形の換気窓など、 変化に富んだ設えがなされています。 ゴシック風の八角尖塔 は 階段室になっています。 正八角筒状になっているので 「八角塔」と呼ばれているそうです。 内部はイチオー撮影不可だったように思う。 いずれも絵ハガキより。 「ら旋階段と塔屋(階段室)」 支柱が一本もなく、 6枚のケヤキ材をつなだいだ 「 厚...

駿府の往時をしのぶ〜駿府城

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駿府の主・家康が在城 していたころは、 江戸とならんで政治経済の中心地として 大いに繁栄した地。 ただ家康亡き後は城主となった 忠長が改易されると 駿府城は城代の管理となったそうです。 寛永12(1635)年の火災で 天守をはじめそのほとんどが焼失、 天守は再建されませんでしたが、 宝永・安政の地震で再び失われたとか。 「 巽櫓 (たつみやぐら) 」は、 東南角の辰巳の方角を守る。 寛永15年再建のものは安政大地震で全壊とか。 櫓建築でも例の少ないL字型の平面を持つもの。 少し進むと「 東御門 」。 奥手に21階建ての静岡県庁舎別館。 桝形門である「 東御門 」は、 門前が 安藤帯刀 (あんどうたてわき) の屋敷 であったことから「帯刀前御門」とも。 「 高麗門 」を櫓から臨む。   本丸跡に出立つ 家康像。 横にあった「 みかんの木 」は、 御手植えのみかんともか。。。 城内の「マロニエ園」とやらには、 みかんのオブジェの付いた 青島平十 さんの記念碑があった。 1965年に県の奨励品種「青島」を 静岡中心に広めたのが青島さんなんだとか。 「 二ノ丸水路 」 水路両側は石垣で底の部分にも 本丸側約50mにわたり 石が敷かれているそうで、 底が洗い流されない構造になっています。 石積みの下の部分は築城当初のものだとか。 こちらは「 本丸堀 」 「 打込みはぎ 」と呼ばれる積み方、 荒割した石を積み上げ、 隙間に小さな石が詰められている工法。 なかに入ると... 「 厭離穢土欣求浄土 」の幟。 お茶壷道中 の御駕籠とか… 発掘された東御門の鯱。 天守復元図によると・・・ 外観は五層に見えるが内部は七階。 一階は瓦葺、二階以上は 鉛と錫の合金の「 白鑞葺 (しろめぶき) 」。 最上層は銅瓦葺で、 軒瓦は鍍金の豪華なツクり。 「 竹千代手習いの間 」 なるものもありました 内部は撮影禁止やったのです… 今川人質時代に過ごした 「 臨済寺 」にあるもので、 今川義元の命日だけ特別公開されます。 城郭はぐるりと残されていて、そこかしこで 往時を偲ぶことができました(・ω・)v