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はるばる来たぜHAKODATE vol.11 "箱館山" 中腹の基督教建築

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函館の街の教会群はちょっと違う… 横浜、神戸、長崎の開港都市と比べ、 各国のキリスト教派の聖堂が、 仲良く並んで建っているのが珍しい 。 世界的に見ても稀有な都市が "箱館" 。 北方、東回りの国ではないのが、 函館開港に導いた肝心の国、 西回りで函館にやって来たアメリカ。 元町の教会群から少し坂を下った 函館山の中腹に建つ、 それが 日本基督教団函館教会 。 ゴシックスタイル の白亜の聖堂。 日本基督教団函館教会 の起源は、 アメリカメゾシスト監督で函館領事、 M・C・ハリス が伝道を始めた… 初代の聖堂も1877年(明治10)この地に。 明治10年代、明治40年、大正10年、 たびたびの大火で祈りの場所を失う。 新聖堂の竣工したのが1931年(昭和6)、 耐火素材の 鉄筋コンクリート製 、 築86年を経てこの地で、 大切に使われ続けています。 静岡出身で大正末から北海道技師、 北海道帝国大学の営繕課長を歴任した、 建築家の 萩原惇正さん  の設計。 堅苦しさのない親しみやすい、 彼の設計の見どころの一つとか。 元町の高台に建つピンク色の西洋館、 ハリストス正教会の近くに立つが、 ほとんどの人は見逃すのだそうです。 アメリカ・メゾシスト教会牧師の M・C・ハリスの 妻・フローラ が 日々学校を始めたことに遡る " 遺愛学院 "の幼稚舎。 1881年(明治14)年の C・R・ライトの寄付により、 カロライン・ライト・ メモリアルスクール 開校が前身。 1913年(大正2年)に木造下見板張り、 5年前に竣工した 遺愛女学校 の 校舎スタイルが踏襲されています。 1885年(明治18)に 遺愛女学校 と改称、 明治28(1895)年には幼稚園も開設され、 木造2階建校舎内に幼稚園も置かれます。 明治40年7月の大火で校舎は全焼、 翌年 遺愛女学校 は函館東部の 杉並町に移転しています。 北海道函館の唯一の中高一貫、 遺愛女子中学校・高等学校 がそれ。 遺愛女学校付属の幼稚園は、 大火後にも再開機運がすぐに高まり、 跡地に幼稚園の建設となります。 J・M・ガーディナー の設計とも… ピンク色のペィンティング… ただ当初は深緑だったらしく、 函館の市民グループ" 元町倶楽部 "の 時層色環調査 で黄褐色やクリーム色

はるばる来たぜHAKODATE vol.10 函館市臨海研究所

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弥生坂の坂下にあった凝ったデザイン、 向かい角からみると 宝形屋根の塔屋 、 " 函館水上警察署 "だったからなのかも? 江戸時代に 松前藩 が、 船舶・貨物への徴税を行うために " 沖之口番所 "を設けたことが始まり。 明治はじめに" 函館郵便所 "が置かれ、 道内初の郵便局となるなど、 函館の歴史を語るキーとなる場所。 基坂沿いの元町公園に立つ "ペリー提督来航記念碑 "… ペリー上陸も"沖之口番所"あたり、 ペリーはここに特設市場を開かせ、 衣類や塗物、陶磁器類を求めたらしい。 旧建物は1926年(大正15)10月の竣工で、 58年間に渡り現役の警察庁舎でしたが、 当時の函館西警察署が海岸町に移転、 その後20年以上も空き家状態… 大正時代ならではの セセッション・スタイルのモダン。 当時の地元紙には 「まづ東北以北にこの位  スマートな警察署はない」 、 「巴港一の偉観である」 と紹介。 竣工時の外壁色のベージュに、 " 函館市臨海研究所 "となった 2007年に戻されたのだという。 2003年にはじまった 函館国際水産・海洋都市構想 、 研究所はそのシンボルとして… 階段 腰壁の石、車止めなどは 古い建物のものを再利用… 外壁も小さな石を練り込んだ モルタルの表面を水で洗い流す " 洗い出し "仕上げで、 ざらざらした石造りのような質感に。 モース滞在記 には" 函館船改所 "という、 スケッチが残っています。 大森貝塚で日本人では有名なモース 、 北海道採集旅行で函館に滞在、 函館船改所の2部屋を" 臨海実験所 " として使用されたそうです。 2ヶ月で採取した標本類は、 モースが東京に帰ってから 一種づつ 開拓使函館支所仮博物場 、 現在の 旧函館博物館一号 に寄贈。 モースの略歴などのパネルがありました。 大正の後半に入って建てられた建物、 函館毎日新聞の記事には、 有志の寄付5万円で、 日本国内で模範とされる 「小樽水上署の庁舎に、  更に一段の改善を  加えたものにしたい…」 とあり、 ライバル都市小樽への対抗心を 伺える一幕の舞台でもありました。

はるばる来たぜHAKODATE vol.9 函館市北方民族資料館

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函館の行政・経済の主要地域だった、 西部地区の基坂角地に立つ ガッシリした角ビル は、 かつては 日本銀行函館支店の3代目 、 1926年(大正15)の建設。 1954年(昭和29)の一部増改築を経て、 築90年以上を誇る建物なのです。 辰野金吾 とその愛弟子にあたる 長野宇平次 らの設計によ る2代目 、 古典様式を取り入れたデザインの 三代目 は日本銀行技師であった 平松浅一 により設計されたという。 1989年に 函館市北方民族資料・ 石川啄木資料館 として開館し、 その後石川啄木資料館が新たに " 函館市文学館 "がオープンされたのを期に、 1993年より" 函館市北方民族資料館 "に。 外壁面や窓枠などが老朽化のため 一新されたこともあって、 当初の面影を残す部分は少ない(T_T) このタイルは数少ないオリジナルかも… 北方民族コレクションは国内屈指で、 時間が足りないくらいの充実ぶり。 蕗の下のコロボックル たちが迎えます。 彼らは姿をみせることが大嫌い、 声を聞くことはあっても 姿を見た者はいないとか。 伝説に登場するコロボックルとは、 「 地下にいる人-穴居人 」とも言われ、 人類学史上の先住民と考えられていて、 アイヌ民族とそれを取り巻く 北辺の異民族との文化交流の背景 で、 誕生した伝説上の主人公と 考えられているのです。 《ルウンペ》 道行くように文様をおいた着物 《シネ シリキ》 ウポポ アンフチが 孫たちに伝承した着物 《カパラミプ》 《ルウンペ》 樺太地方の晴着 樺太アイヌの帽子 《イカムハハカ》 手甲(てっこう) 《テクンペ》 北海道アイヌの刀掛帯 《エムシアッ》 トナカイ皮で作られた冬用長靴 ウイルタ民族 のトナカイ皮の財布 《グマーリニッカ》 土産物だったようですが、 アリュートの狩猟の様子 が描かれた セイウチの牙です。 ちょっと絵巻物のようでもあります。 アリュート族 は、 アラスカとカムチャツカの間にある アリューシャン列島の先住民族 。 こちらにも勇姿が描かれています。 横山華山 の筆になる 《蝦夷魚艇》 華山は江戸後期の絵師ですが、 蝦夷地を訪れたことはなかった… 他の絵師のアイヌ絵に刺激を受けた。 《アイヌ夫妻之図》 手に魚を引っかけて捕る" マレク "を 持つ