太閤秀吉を辿るvol.14 醍醐の花見
"醍醐の花見"に行ってきました! 秀吉がこの地で花見をしたのは、 1598年(慶長3)3月15日 のこと。 醍醐寺三宝院門跡 義演准后 は、 日記に次のように記しています。 「今日太閤御所渡御せらる、 女中各御成あり、 終日花御覧遊覧す、 路次茶や以下の結構、 筆舌に尽くし難し、 一事の障碍なく、 無為に還御せらる、」 『義演准后日記』 にこう記した 義演は 「一寺の大慶」「一身の満足」 であったと述べています。 実は秀吉は"醍醐の花見"に先立つ 前年3月ににわかに醍醐寺を訪れ、 さらに翌年2月に花見の下見… 「桜ノ馬場」から「やり山」 に続く 約637メートルの左右に… その数「七百本」 とか。 総門から仁王門に続く道 に 見事に咲き誇る桜… この光景こそ秀吉が見たものだと 違いないのだそうです。 秀吉は1597年(慶長2)に 五重塔 の修理に着手して以降、 金堂、金剛輪院などの伽藍を再興 。 《義演像》 17世紀 醍醐寺 応仁・文明の乱 で荒廃していた 醍醐寺を再興した大施主、 義演は三宝院門跡 座主 として、 秀吉の後援をうけ、 伽藍の復興を行った 中興の祖 とされました。 秀吉の没後も秀頼により継承 、 山上山下の多くの堂宇が 整備されることになったのです。 そもそも秀吉の醍醐寺や 義演に対するコダワリとも 言える行動にはナゼ? 大きな理由の一つが "秀吉の関白就任" とか… 従一位関白に叙されたのは、 1585年(天正13)7月11日、 この前日に 義演の実兄 である 二条昭実 は従一位関白に… そして 秀吉の関白就任 と 入れ替わりに辞任しています 義演は准三后に宣下 されたのが、 秀吉関白叙位の翌日のこと。 公卿の議で決定される宣下が、 秀吉の"申沙汰" で にわかに 。 実兄の関白辞任の代償として、 秀吉の強い働きかけにより 義演が准三后に補任… 《幔幕図屏風》 生駒等寿 江戸時代 醍醐寺 背景には 朝鮮出兵 も関わりがあり、 護持祈祷として大阿闍梨 義演 が 東寺講堂 で仁王経法を勤修。 また 高野山大塔 落慶供養も 、 義演 が導師で 大壇那は秀吉 でした。 醍醐の花見が行われた5ヶ月後、 秀吉は病に倒れ、義演は 北政所 より 「御祈祷料黄金五十両」を