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世界遺産・石見銀山へ⑦ オシャレ発信地「群言堂」

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かつての旺盛を誇った石見銀山も いまや400人程度の人たちが暮らす町。 世界遺産になったこともありますが、 オシャレなお店があちこちにアリマシタ。 銀製品を扱うお店もあちこちに。  そんなこの町の ライフスタイルを発信しているのが、 「 群言堂 」さんです。 全国各地に直営店がありますね。 大阪では 阪神梅田 と 大丸心斎橋 に... 本店の奥はカフェになっていて。。。  限定メニューの 「 旬野菜グリーンカレー 」をペロリと。 ココナッツミルクに ハーブ&香辛料が効いてます。 飲み物セットで1,000円なり。  ここで クールダウンさせてもらって。。。  超快速の石見銀山めぐりもオシマイです。 「 世界遺産センター 」 には 行けませんでした(TдT) ざんね〜〜〜〜ん。また行こ(・ω・)v  

世界遺産・石見銀山へ⑥ 龍源寺間歩へ

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石見銀山にも ゆるキャラ がおります。 螺灯 (らとう) と 鉱夫 の衣装がモチーフ、 その名も「 らとちゃん 」。 螺灯とは、 かつて銀山の間歩=坑道でも使われた、 サザエの殻に油を入れて 火を灯す明かりのこと。 恥ずかしがり屋さん、 だけどいったん「火」がつくと、 ソコヌケに明るい性格という... とても他人とは思えない(・ω・)v   石見銀山のメインスポット 「 龍源寺間歩 」 (りゅうげんじ まぶ) に行く前に、 「山神さん」と呼ばれ親しまれている 古社へお参りをしました。 なが〜〜い石段を登って。 「 佐毘売山神社 」 (さひめやまじんじゃ) 周防の戦国武将として勢力を誇った 大内氏 が 1434年に建立したと伝わります。 佐毘賣山神社のルーツは益田市、 石見国で最古級の鉱山で、 銅を主に産した  都茂鉱山   があるそうです。 精緻に積まれた石垣はまるで城郭のよう... 亀の口から流れる手水...なかなか愛らしい。   「龍源寺間歩」へは時間短縮で、 ビジターセンターで 電動機付き自転車 にて。 代官所前広場にてボランティアガイドさんに、 時間がないのを伝えていたら... 「 ビジターセンターに連絡してあげるよ 」と。 それでも2時間以上はかかる! と言われていたのを、 まさに駆け足にて!!! 現在唯一公開されている間歩。  幻想的な雰囲気をカメラに収めつつ。  まさに エエとこどり であります(・ω・)v 1715年(正徳5)の開発で代官所の直営。 江戸時代の開掘の長さは600mに及びます。 こちらは 新坑道 で1943年(昭和18)くらいまで、 約230年間も間歩の開発が行われたそうです。 さぁ〜車に戻らねば...

世界遺産・石見銀山へ⑤ 五百羅漢へ

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石見銀山でひときわユニークな場所、 石窟「 五百羅漢 」。 お目当てのひとつはココ!! 銀山で働いて亡くなった人々の霊や、 わたしたち祖先の霊を供養するためにと、 地元の人々、大森代官所の役人、 そして八代将軍 吉宗の次男 田安宗武 (むねたけ) の援助で 田安家奥御殿の女中など 多くの人々の寄進によるもの。 完成には25年を費やし、 1742年に発願されて、 ようやく1766年(明和3)に 完成したものです。 羅漢像は現在の 温泉津町 (ゆのつちょう) 福光 (ふくみつ) の 石工 坪内片七 と その子および一門のてによるもの。 写真撮影ができませんでしたので、 HPから転載 してきます!! さまざまな表情とその姿勢。 当時の人々はここにお参りすれば、 亡き父や母、わが子の面影にあえると... 「五百羅漢」とは、 お釈迦様に従っていた 五百人の弟子のこと。 世間一般の感情や欲情は 超越しているものの、 菩薩の境地には達せず 我々人間と仏との間の存在です。 石窟の前を流れる 銀山川の支流に架かる 反橋 。 石を組み合わせて造られたもので、 当時のままで今に伝わっています。 この地の水は名水として名高く。 五百羅漢がおられる前からここを湧く水で、 「 三百水 」という名で親しまれています。 当時の人々は水を桶に担いで銀山に 売り歩いたのだとか... 「 一荷三百文 」なのでその名があります。

世界遺産・石見銀山へ④ 旧河島家住宅

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代々銀山附役人を勤めた「 旧河島家 」。 1610年(慶長15)に 銀山奉行大久保石見守に召し抱えられあと、 河島家中興の祖である 6代目三郎右衛門 のときは、 銀山附役人のトップである 組頭まで昇進したとか。 石見銀山内で唯一公開されている 武家屋敷の居宅跡 で、 中には隠し部屋もあるとか。 1935〜1951年まで大森町役場、以後、 駐在所、農協支所として利用されたそうです。 武家の家らしい槍たちも。。。 主屋は平屋建てのように見えますが、 土間と納戸の上に二階が設けられていて、 接客用の座敷から庭を見下ろすことができます。 こちらは別の2階部屋です。 台所附近は高い天井が 大きな梁で支えれていました。 石見銀山領という特殊な支配地ならではの、 その土地に精通した者が地役人として 代官所の入用によって採用されたそうです。 地役人はその地に土着の人から選ばれた ようで、 原則一代限りの召し抱えだったのですが、 ほぼその大部分は世襲されていたようです。 初代三郎衛門以来8代まで 256年間地役人を担ってきただけに、 書画などもたくさん伝えられていました。

世界遺産・石見銀山へ③ 西性寺

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大森地区の高台にある「 西性寺 」 (さいしょうじ) 。 1465年(寛正6) の創立と伝えられる寺院だが、 もとは天台宗龍泉院、 のちに西善坊と 称するようになったとか... 山門をくぐって 左手奥にある経典を納める蔵には、 その四面の壁に鳳凰・牡丹・菊をあしらった 「 鏝絵 」 (こてえ) というのがあります。 大正時代中頃に「左官の神様」と尊敬された 松浦栄吉  が 還暦を迎えたころのものだと... 壁と天井の境の飾りである 「 蛇腹 (じゃばら) 」という左官技術だったのです。 彼は英国で習得した腕を買われて、 日本に呼び戻されたのだそうです。 大阪の郵政管理局や 下関の山陽ホテルなども 手がけたと伝わります。 西性寺にこれがあるのは、 彼の菩提寺であるから... 本堂は1739年(元文4) の 再建。 本堂の木鼻... 獅子 の表情がオモシロイ。 こちらは阿形かな? 実は木鼻の上に、 「弘化4丁未七月 作者荻原村 船原廣兵衛  六十歳調之 施主銀山方御役人  河島三郎右衛門妻 御クミ」と彫ってあるとか... 施主が奥方というのも興味深い お寺です。