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京都特別公開2017秋 海住山寺①

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興福寺 の奥の院とも呼ばれた 海住山寺 (かいじゅうせんじ) へ。 第53回 京都非公開文化財で、 補陀落山 にある五重塔に お会いすることができました。 JR加茂駅から朝一本の直通バスは、 満員で+お寺のマイクロバスを お寺の方に走らせておられました。 「 文化財保護特別協力号 」 マイクロバスにて… 眼下に広がる盆地は 「みかの原 わきて流るる泉川  いつみきとてか 恋しかるらむ」 と 詠われた「みかの原」の地。 かなり急峻な坂を昇り降り、 バスのありがたみを感じました。 鎌倉初期に興福寺におられた 解脱上人 貞慶 (じょうけい) が再興。 「観音寺」と称していましたが、 観音の誓願海に安住する という 意味を示す「 海住 」、 「 観音と共に大慈の行を  実践したいという 」上人の 思いが結実した寺号です。 特別公開は五重塔、本坊、本堂。 現存する鎌倉期建立の 唯一の五重塔は国宝。 総高17.7mで、 室生寺に次いで小さいもの。 貞慶が舎利安置のため建立、 没後 建保2年(1214)に完成。 心柱が初重の天井上から 立てられているので 心礎がありません。 吹放ちの 裳階 (もこし) と呼ばれる、 初重に設けられていて、 安定感を与える姿をみせています 。 初重内部の 四天柱 内の 須弥壇に四方の扉構え。 慈心上人伝来と伝わる 仏舎利が祀られていました。   そして扉絵には 梵天 (左)、 龍王   など華麗な彩色で 描かれています。 そして四天王立像…   持国天と多聞天 広目天と増長天 仏舎利は釈迦の遺骨のこと、 聖徳太子のころは 「仏舎利を塔に  奉安することにより  国は自ら厳清になる」 とされていた時代から、 伽藍における塔の地位は低下し、 中枢から離れた場所に置かれます。 仏舎利よりも初重に安置される 仏像へ重きが置かれるよう 塔の形式化がみられてきます。 そんな時代の 海住山寺五重塔、 心柱が 初重の天井上から 立てられていて 心礎はありません。 ただ初重の内陣は四方とも扉構え、 大きな厨子 のように造り、 実は初重内部の厨子状の造りは 現存する塔には他例がなく。 ま...

いざ興福寺 五重・三重塔へ

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興福寺 五重塔 三重塔   内陣みてきました! 8月末からやってはったけど、 すべりこみ(・ω・)v 五重塔と三重塔を共に 有しておられるのは、 興福寺オンリーワン なのです。 5回の被災を受けている五重塔、 今あるのは応永33年。 「 応永の乱 」終戦の年。 管領と守護の戦いで、 よく知られる応仁の乱の 前哨戦とも言われてます。 塔高が50.1m。 軒の出が深くて、 創建時の特徴を継ぎつつ、 新たな手法がみられます。 いざ内陣へ! 内陣西  阿弥陀如来三尊像 内陣南  釈迦如来三尊像 普賢菩薩 は象、 文殊菩薩 は獅子に… 三重塔に行く道すがら、 南円堂 を見上げると… 大仏さんの螺髪??? サハンド・ヘサミヤンさんの 《開花》 というアートとか。 三重塔の内陣は初めて入ります。 崇徳天皇の中宮であった 皇嘉門院聖子 が康治2年に建立。 摂政関白 藤原忠通の長女にあたり、 藤原家の寺院だったことを、 示す塔のひとつ。 平重衡 の南都焼打によって焼失、 そのご鎌倉時代前期に再建され 現在に至っています。 灯籠にも藤の寺紋。 もとは初層内部の四点柱、 東に薬師如来、西に阿弥陀如来、 南に釈迦如来、北に弥勒如来が、 各千体描かれていたそうです。 千体仏の彩は興福寺三重塔 独特のもの…ほかに例がないとか。 弁財天坐像 は弘法大師勧請と伝わり、 十五童子とともにおられました。 毎年7月7日に弁才天供が 営まれておるそうです。 お昼は「 ならざんまい 」 柿の葉すし、にゅうめん、ごま豆腐、 奈良漬、わらびもち。 朝日新聞社、テレビ朝日などが 手がけておられる 三重塔バーチャルリアリティー 体験してきました。 VR技術 の体験… ゴーグルのようなものをつけて… Cear というVR時代スピーカーも。 実物見た後だから… 見れないところだと、 もっと感動したかも。 復元天井はヨカッタっす(・ω・)v しか〜〜〜とみたよ。 次はコレを観に行こう!