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ジャンボ獅子にビックリ〜難波八阪神社

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巨大な御獅子・・・ 前から友だちのブログで見てたのだけど、 ホンモノを目にすると圧倒された。 「 難波八阪神社 」の巨大な獅子舞台は、 四ツ橋筋から西へ一筋入るとこにあって、 東の鳥居からみるとその姿に唖然とするしかない。 高さ12メートル、幅11メートル、 奥行10メートルという超ビックなモノ。 御獅子の歯茎はちょっと腫れ気味かな?? 夏祭りや神事の際には、奉納舞などが行われてて、 「船渡御」と「陸渡御」が行われる7月には、 獅子舞台を中心に賑わいを見せるのだそうです。 舞台の真ん中に据えられたのは、 「 綱引神事 」の八頭八尾のオロチに見立てた大綱。 ご祭神の素戔鳴尊(すさのおのみこと)が 八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した説話に由来する。 「摂津名所図会」難波村牛頭天王綱引 古来難波下の宮と称され、 難波一帯の「産土神」 (うぶすなのかみ) でした。 ちなみに「産土神」というのは、 土地や郷をまもってくださる神様のことです。 本殿は1974年に改築されたもの。 こちらが正面になります。 境内社の「 篠山神社 」。 大坂代官であった 篠山十兵衛景義 が祀られています。 十兵衛は誠実謙虚な人柄で、 淀川の治水、物価の安定化から 夫婦喧嘩の仲裁まで心を配った名代官だったそうで、 現在の「 大阪木津地方卸売市場 」のルーツとなる、 木津村の市場は彼の尽力によるものなのだそうです。 「世の中の あふぐも たかき 功こそ   巌とともに 朽ちせざりけれ」 の歌碑

大阪なんば・瑞龍寺の布袋さん

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七福神のなかでは「 布袋さん 」は、 なかなか出会うことがムズカシイ。 実は布袋さん神様ではなく僧侶なんだそうです。 こちらは大阪・なんばの「 瑞龍寺 」の布袋さん。 四つ葉橋筋に面していて、 実はお隣は「 蓬莱パンチャン551 」さん、 よくお店には行くのだが知らなかった。 桃の蟇股なんかみると・・・ 中華屋さんの門みたい。 七福神は、 恵比須 と 大黒天 と福の神の ペアから始まったといわれ、 関西の商家では今でも この二神が祀られていることがあります。 弥勒菩薩の化身 とも言われ、 中国では王朝が代わる時に現れる一種の聖人。 次第に神格化されてきたようです。 日本へは禅画のモデルとして入ってきたようで、 京都の伏見人形の布袋像が集められる習慣が広まって、 その風貌から日本でも人気の福の神になったようです。 「瑞龍寺」は黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊が本尊。 寛文10年(1670)に黄檗宗の 鉄眼和尚 を招いて中興開山したそうです。 黄檗宗では 布袋は弥勒菩薩の化身と考えられていて、 京都宇治の「 萬福寺 」の天王殿でも、 とても大きな布袋さんに会うことができるそうです。 鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、 全国行脚募財した結果、 一切経の木版6956巻32万頁を完成したとか。 その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、 一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ 「 鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり 」といわれ、 その徳の高さから一般に「 鉄眼寺 」と呼ばれています。 境内にある「 お勝稲荷 」。 江戸堀河内屋作兵衛が境内に小社を創建した。 鎮守社として今に伝わる神仏習合の名残です。

真田山のお地蔵様をたずねて

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「 真田山 」というところは父と祖父母の墓所があり、 虎次郎にとっては馴染み深い場所なのですが、 ぶらぶらと歩くのはおそらく初めてのこと。 ここかしこで お地蔵様に出会いました。 こちらは「 空堀地蔵尊 」。 「真田山旧陸軍墓地」の中にあります。 「智慧の朝おき地蔵尊」 「早起きは 真田山だから六文の得 」なのかな? 真田山の交差点から餌差町へ向かうと急勾配。 その途中にあるのが「 伝長寺 」。 『絵本太閤記』作者・ 武内確斎 の墓所があるところです。 『絵本太閤記』は当時爆発的にヒットするのですが、 豊臣人気が高まることに恐れをなした幕府が絶版に。 大坂の太閤びいきには神経を尖らせていたようです。 山門をはいると・・・ すぐ右手にあるのが「 なで地蔵尊 」さん。 体の悪いところと同じところを撫でさすれば、 身体についた悪霊を取り除いてくれるとのこと。 カドが取れて丸々してはります。 恰幅 (かっぷく) の良いお姿に親しみをおぼえます。 「真田丸跡碑」が門前にある「 心眼寺 」。 ここにあるのが「 まん直し地蔵 」。 「まん」とは 大阪弁で「運」「げん」 のことです。 運気の悪いときに祈願すると効験があるとのこと。 そして…大坂の陣の戦死者を 弔うために建てられたと伝わる 「 どんどろ大師 」の「善福寺」へ。 1909年にここに移ってくる前には 「鏡如寺」というお寺があったようです。 本尊としていた弘法大師を深く信仰していた、 大阪城代の 土井利位 が付近に住んでいたことから、 土井殿大師と呼ばれるようになって、 なまって「どんどろ大師」となったと伝わります。 土井利位は、幕府の老中となり「天保の改革」で 水野忠邦を支えた人物なのだそうです。 毎月21日の大師さんの日に行われた 「大師めぐり」の一つに選ばれたことで ずいぶん賑わうようになったそうです。 それにあやかって近松半二らが 浄瑠璃芝居「傾城阿波鳴門」八段目の舞台を この地に書き換えたところ、 芝居は大評判になったと言われています。 「傾城阿波鳴門」のあらすじ 阿波の十郎兵衛・お弓の夫婦は主君の盗まれた刀を 探し出すために盗賊として裏社会に紛れ込んでいますが、 そこへ幼くして生き別れた娘・お鶴が徳島から父母を尋ねてきます。 お弓は娘と分かりますが、 いまは盗賊の身で一緒に暮らすこ

真田の抜け穴〜三光神社

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かつては大坂城の出城が置かれていたという、 真田山にある「 三光神社 」へ… 大坂の冬の陣のときに真田幸村が 大坂城からここまで掘ったと伝わる 「 史蹟 真田の抜け穴 」。 籠城を決め込んだ大坂方に対して、 業を煮やした 徳川家康 が掘らせたものとか、 実際のところはそんな感じなのだそうですが… そんな説を一蹴するだけの構えがあり、 六文銭 が刻まれた頑丈な鉄扉。 真田幸村像の台座は、 信州上田の真田家菩提寺・長谷寺から 取り寄せられたという「真田石」。 戦後間もない時期まではここによく似た 「抜け穴」なるものが空堀通の南側に点在したとか。 いまなお太閤贔屓の大阪人が伝えてきた、 幸村に対する敬慕の現れの一つともいえます。 こちらは真田丸の中心といわれる 「 心眼寺 」門前にある「 幸村出丸城跡 」の碑。 数百m離れた餌差町交差点の近くにあります。 三光神社は社伝によれば、 反正天皇の時代の創建といわれ、 古代は河内湖に面していて、 かつては「 姫山神社 」と呼ばれていて、 一帯は「姫の松原」が広がっていたようです。 今は桜の木がここかしこにあり、 春には華やいだ雰囲気につつまれるとか。 神社の裏手にあるのが「 旧真田山陸軍墓地 」。 わが国最初の陸軍墓地で、 1871年に兵部省が設置したもの。 近代日本の戦争と軍のありようを 現在に伝える貴重な歴史的遺跡です。 5000基以上の墓石群が 荘厳な雰囲気を醸し出していました。

大阪の神社めぐり 玉造稲荷神社②

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「 玉造稲荷神社 」の続きをお伝えするコン!! 境内には もう二つの稲荷社 が祀られている。 「 万慶稲荷神社 」と 「 新山稲荷神社 」をまもる。 勾玉のネックレスをかけてる。 徳川時代には城内の屋敷の ほとんどに 稲荷社があったようで、 享保年間にここに遷座されたという。 境内には豊臣秀頼の銅像が鎮座する。 その背景に家形埴輪のようなものが見える。 実はこれ「 難波玉造資料館 」で、 神社に伝わる古代玉遺物などを展示しているらしい。 というのも事前に予約が必要で 当日申し出では見学できないのだ。 神社付近には 豊臣家旺盛の頃は、 前田利家、宇喜多秀家、細川忠興、島津家久といった 豊臣方の武家屋敷が軒をつらねていた。 秀頼の母である淀殿の崇敬はとても厚かったそうで、 社領5百石の寄進を受けていたこともあるらしい。 慶長8年(1603)に寄進された鳥居が残る。 ただあの阪神・淡路大震災で被災し、上部だけを残す。 大坂城で行われた神事はすべて玉造稲荷神社が 携わっていたようで、往時をしのばせる一つ。 ところで… 秀頼像についてはマザコンとか勝手なイメージが 付きまとっている印象があります。 京都・養源院にある少年期の像が拍車をかけています。 こちらは東京芸術大学美術館に残る 青年期の束帯姿の肖像画。 「体格は六尺以上はあった」という 伝承に近いものです。 銅像は2011年の 大阪城築城80周年に建てらたもので、 さまざまな史実を考証して造られたそうです。 もう一つの秀頼にまつわるものが 「 胞衣塚大明神 」。 ここに遷座したのは1983年で3回めのこと。 「 玉造清水 」と呼ばれる名水処であり、 千利休が茶の湯に愛用し近くに屋敷を構えたと伝わる。 豊臣家が野点の茶会を楽しんだという故事に 因んで建てられたものだそうで、 参集殿2階に茶室「 豊玉庵 」が作られています。 そして周辺にも… 大坂城を偲ばせるものがありました。 こちらはかつて大坂城の東側を流れる 猫間川に架かっていた「 伏見橋 」の跡で、 大坂城の守りの要に位置していたそうです。 約50メートル南にある榎木には、 「 白光大神 」と書かれた祠があって、 榎には神の使いの白蛇が棲みついているとか。 大坂夏の陣・冬の陣の頃は こんもりとした森であったようですね。