大阪の神社めぐり 玉造稲荷神社②
「玉造稲荷神社」の続きをお伝えするコン!!
境内にはもう二つの稲荷社が祀られている。
「万慶稲荷神社」と「新山稲荷神社」をまもる。
勾玉のネックレスをかけてる。
徳川時代には城内の屋敷の
徳川時代には城内の屋敷の
ほとんどに稲荷社があったようで、
享保年間にここに遷座されたという。
境内には豊臣秀頼の銅像が鎮座する。
その背景に家形埴輪のようなものが見える。
実はこれ「難波玉造資料館」で、
神社に伝わる古代玉遺物などを展示しているらしい。
というのも事前に予約が必要で
境内には豊臣秀頼の銅像が鎮座する。
その背景に家形埴輪のようなものが見える。
実はこれ「難波玉造資料館」で、
神社に伝わる古代玉遺物などを展示しているらしい。
というのも事前に予約が必要で
前田利家、宇喜多秀家、細川忠興、島津家久といった
豊臣方の武家屋敷が軒をつらねていた。
秀頼の母である淀殿の崇敬はとても厚かったそうで、
社領5百石の寄進を受けていたこともあるらしい。
慶長8年(1603)に寄進された鳥居が残る。
ただあの阪神・淡路大震災で被災し、上部だけを残す。
大坂城で行われた神事はすべて玉造稲荷神社が
携わっていたようで、往時をしのばせる一つ。
ところで…
秀頼の母である淀殿の崇敬はとても厚かったそうで、
社領5百石の寄進を受けていたこともあるらしい。
慶長8年(1603)に寄進された鳥居が残る。
ただあの阪神・淡路大震災で被災し、上部だけを残す。
大坂城で行われた神事はすべて玉造稲荷神社が
携わっていたようで、往時をしのばせる一つ。
ところで…
秀頼像についてはマザコンとか勝手なイメージが
付きまとっている印象があります。
京都・養源院にある少年期の像が拍車をかけています。
こちらは東京芸術大学美術館に残る
青年期の束帯姿の肖像画。
「体格は六尺以上はあった」という伝承に近いものです。
付きまとっている印象があります。
京都・養源院にある少年期の像が拍車をかけています。
こちらは東京芸術大学美術館に残る
青年期の束帯姿の肖像画。
「体格は六尺以上はあった」という伝承に近いものです。
銅像は2011年の大阪城築城80周年に建てらたもので、
ここに遷座したのは1983年で3回めのこと。
「玉造清水」と呼ばれる名水処であり、
千利休が茶の湯に愛用し近くに屋敷を構えたと伝わる。
豊臣家が野点の茶会を楽しんだという故事に
因んで建てられたものだそうで、
参集殿2階に茶室「豊玉庵」が作られています。
そして周辺にも…
大坂城を偲ばせるものがありました。
こちらはかつて大坂城の東側を流れる
猫間川に架かっていた「伏見橋」の跡で、
大坂城の守りの要に位置していたそうです。
約50メートル南にある榎木には、
「白光大神」と書かれた祠があって、
榎には神の使いの白蛇が棲みついているとか。
大坂夏の陣・冬の陣の頃は
「玉造清水」と呼ばれる名水処であり、
千利休が茶の湯に愛用し近くに屋敷を構えたと伝わる。
豊臣家が野点の茶会を楽しんだという故事に
因んで建てられたものだそうで、
参集殿2階に茶室「豊玉庵」が作られています。
そして周辺にも…
大坂城を偲ばせるものがありました。
こちらはかつて大坂城の東側を流れる
猫間川に架かっていた「伏見橋」の跡で、
大坂城の守りの要に位置していたそうです。
約50メートル南にある榎木には、
「白光大神」と書かれた祠があって、
榎には神の使いの白蛇が棲みついているとか。
大坂夏の陣・冬の陣の頃は