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大阪のはしばし vol.8 田蓑橋

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「 田蓑橋 」 堂島開発によって、 元禄時代に架けられた橋の一つ。 田蓑は古代の“おおさか”にあった とされる 八十八島 の一つ、 “ 田蓑島 ”に由来しています。 道長の時代の『扶桑略記』には、 田蓑島を「 雲海茫々、沙渚眇々 」、 島というよりは砂洲だったようです。 江戸期の文化3年(18006)の 『増補摂州大阪地図』には、 鷺洲の北部 を「古田蓑島」とか… 北区堂島とも、 天王寺の西側とも伝わります。 田蓑橋が近代橋になったのは、 大大阪時代のことで、 優美な形のコ ンクリートアーチ 、 屈指の美しい橋であったそうです。 大正1924年(大正13)に デザインコンペのあった 淀屋橋と大江橋の3位 に なった案を参考にされました。 基礎だけ昔のを使っていて、 橋脚や橋台といった 橋と地盤をつなぐ構造体を 受け継いでいます。 橋脚の位置に バルコニー が 設けられたのは、 戦前の姿を少しでも 留めようという気づかいの 表れかも知れませぬ。 その昔 北東側には、 「 大阪中央電信局 」。 山田守 の設計で1927年の築、 パラボラ型の窓のリピート… 放物線アーチのモチーフ。 大阪中央電話局は1966年に 取り壊されたのですが、 往時をしのばせる記念碑。 「孤形の屋階をつけた  ローマ式近代建築で当時に  「 白亜の殿堂または不夜城 」  とうたわれ…」とあります。 同じ右岸にたつ「 蛸の松 」の碑石。 橋の周辺は各藩の蔵屋敷が 建ち並んでいたそうで、 広島藩と 久留米藩蔵屋敷 前に 植えられた松は、 実際は左岸にあったそうです。 見事な枝振り… まるで手足を広げて海を泳ぐ 蛸の様に見えることから 「蛸の松」と名付けられ、 ご神木として愛されてきました。 その後、次第に樹勢が衰え、 明治の終わりに 枯死してしまいましたが、 切り株は大阪教育大学に 保存されているそうです。 ちなみにこの「蛸の松」の絵、 お昆布屋さん「 神宗 」の 進物用容器上蓋のデザインに 使用されています。 近年 蔵屋敷跡の発掘調査が 行わ

赤備えの陣へ 志紀長吉神社 

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大河ドラマ「真田丸」 終わりましたね… 大坂夏の陣の 「 道明寺・誉田の戦い 」の後、 戦勝祈願としたとされる 「 志紀長吉神社 」へ。 谷町線  長原駅からほど近く、 改札前に 幸村マーク 入りの マップがあったのですが、 まっすぐ行くと。 参道がすぐ見つかったので、 北へ… 東軍の 伊達政宗 隊と一戦後、 大坂城に撤退する 道すがら立ち寄り、 戦勝を祈願として、 軍刀 と 六文銭旗 を奉納した社。 当時は「 日蔭明神 」という社、 『中河内郡誌』によれば、 「伊達政宗との大坂夏の陣の時  大坂城より退却命令が下され  天王寺・茶臼山に  退くことになったが、  この途中 幸村・戦勝を  日蔭明神に祈願せし時、  神社の馬場にて休息せりと伝う。  この時麻地六文銭章の旗  および刀剣を当社へ寄進せり」と… 刀剣はGHQ接収後行方知らず… ただ軍旗は当社にあって、 正月には一般公開 されるとか。 ただ…奮闘するのですが、 徳川軍の圧倒的な 数におされてしまって、 最期は 安居神社 にて討ち死。 と…伝わっています。 室町時代から戦国時代には 「 永原大宮 」と呼ばれて、 四天王寺や住吉大社などに 列せられる 地域支配の核 となる社寺だったとも。 江戸時代には 神仏習合の阿弥陀寺とも 号していたそうです。 神紋「 日蔭の蔓 」 “ ひかげのかずら ”と読みます。 第51代 平城天皇 (809年)に発する、 日蔭大明神の受位に因む。 日蔭蔓とは、日蔭に生えた蔓を 用いて作った冠飾りのこと。 社殿は、 戦後再興のコンクリート造。 境内には神宮遥拝所もありました。 徳川方が苦戦したのは、 この周辺には砦の役目を 果たした古墳があったからとも… 近くにも「 長原高廻り古墳群 」。 大阪市営地下鉄工事により発掘、 長原45号墳では武人形埴輪の 発見もあったそうです。 民家の間にたつ 「 真田幸村休憩所跡 」。 ホント… 見つけるの、 苦労しました(TOT) 永楽通宝ならぬ 五円硬貨で六文銭。 長原歴史保存委員会さ

大阪のはしばし vol.7 和気橋

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「 和気橋 」には六文銭の 幟が掲げられていました。 大坂冬の陣では 家康 の本陣、 そして夏の陣では 幸村 が布陣の 激戦地となった茶臼山へ渡る橋。 奈良時代に 和気清麻呂 が 河内川を南に引こうとしたとする 「 河底池 」とともに史蹟の碑石。 旧大和川の流れを変えるために 上町台地を開削したのは、 788年(延暦7年)のこと 。 橋が架かったのは 1936年のことですから、 戦前の時勢からすると、 皇統護持で活躍 の 和気清麻呂の名を 付けたのは時勢を表すもの。 赤備えの真田の橋のように… すっかりと塗り直されています。 2008年4月ごろは、 朱もずいぶんと薄かったです。 擬宝珠 があるから、 位置づけとしては 公儀橋 ということになりますので、 幸村橋とか茶臼山橋とは 名付けなかったことは、 合点がいきます。 茶臼山が古墳か否かについては、 1986年調査で 埴輪・葺石確認せず、 「古墳ではない」 とする 説もでたのですが、 2009年に水銀朱が塗られた 石室らしきものが発掘… ふたたび「学術的に古墳」と 位置づけられているのです 「河底池」 “ ちゃぶいけ ”という方が、 地元の人には通りがヨイのかも… 東西の陣が交互に張られた、 小高い山は四方八方から、 踏み入られていていました。 真田幸村の名言なる立て札も… 六文銭のみ… まさに真田丸ブーム一色。 大阪市の古い写真だと… どちらかというと、 橋の色はクリーム色?(TOT) しばらくは赤備えで…