投稿

12月, 2014の投稿を表示しています

とこなめにきたにゃん六 陶に生き、陶を商ふ

イメージ
常滑は焼き物の町であるとともに、 江戸時代から明治初期にかけて 廻船の町でもあった。 「 廻船問屋 瀧田家 」は、 1850年ごろに建てられた居宅。 木綿問屋も行っていたそうで、 1904年(明治16)に廻船経営から撤退するまで、 常滑の文化交流の拠点的な存在だったそうです。 主屋は上口の間、仏間、座敷二つが、 表玄関に縁側を持たせて建てられています。 上口の間には 招き猫 と 福助 はん。 こちらは「 弁財船 」 持ち船の積載は1000石ばかり。 伊勢大湊や常滑で作られたそうですが、 乗員は10名に満たないので、 いわゆる潮待ち船だったのだと思われます。 知多半島を拠点にする「 尾州廻船 」は、 伊勢湾〜江戸間を10日程度で結んでいたとか… 仏間には立派な仏壇、そして上方には神棚。 奥の座敷には床の間。 納戸には箪笥長持ちがズラリと。 尾州だけあって 名古屋城の着物もありました。 こちらは油を燃焼させるランプ「 無尽灯 」。 空気圧で下部のタンクから一定量をくみ上げて、 一晩中照らすことができすようにしたもの。 東芝の創立者とも伝わる からくり義衛門 の発明品である。 雪隠には陶器の便器…当初のものか? 奥手には離れがありました。 おそらくこちらが居宅スペースのよう。 床の間にあるのは大ぶりの朱泥の急須。 「 朱泥細字彫急須 」で諸葛孔明の 『 出師表 』が刻まれています。 「 陶彫のある商店街 」にも 巨大急須がありやした。 窯や さんの前にも巨大急須… 茶柱が立たないから、 考えこんでいるのだろうか?? 瀧田家さんの前が「 デンデン坂 」。 南の丘から湊に出入りする 舟の様子を主人に伝えたことから、 その丘を 「伝の山…通称でんでん山」と呼んだ。 この坂はデンデン坂と名付けたんだどさ。

とこなめにきたにゃん伍 チムニーのある空

イメージ
“ 日本六古窯 ”のひとつ常滑、 あと五つは 瀬戸・信楽・ 越前・丹波・備前。 常滑焼において、 焼物は 「用」をなす生活品 、 「美」としての作品という 意味合いが 求められるようになったのは、 ここつい最近のこと。 常滑繁栄のシンボルである レンガの窯と煙突、 今ではその役目を終えて… その昔「 常滑のすずめは黒かった 」とか、 煙突の煙でみんな真っ黒で、 となりの町まで行った子どもたちが、 黒くないすずめをみてびっくりしたそうだ。 「やきもの散歩道」のスタート地点には、 陶磁器会館のポストには猫の配達人。 チムニー (煙突)のテッペンには木が… 歴史の刻みはここに花を咲かせるのか? 明治になって西欧の技術が導入されて、 陶管、焼酎瓶、煉瓦タイル、衛生陶器といった 「業」としての発展 してきた常滑焼。 日本の近代化を支える場所であったのです。 かつて常滑船と呼ばれる海運が、 その発展を支えていました。 いまは常滑から臨む海原からは 空の道が開かれているのです。 作るのは自分たちが使うためではなく、 生活の上で稼ぎを得るためのもの。 業から生まれた産地の特色は、 掟の伝承というよりも、ノウハウが優先され、 その技術が次の世代に伝えられたそうである。 《ねじれる》藤田徳太 それでも、 「土捏ねは弟子がやるもの」という、 決まり事はいくつかあったようではあるのだが… 「芸」としての光を浴びるようになってきて、 作陶の熱が高りつつある。 陶芸道場とともに、 名古屋芸大の工房 なんかもあった。 チムニーはいまはモニュメント… なかには窯を使っての パン工房なんて変身も遂げていた。 長く常滑を支えてきたチムニーたちは、 今は鉄の枠に支えられていた。 こちらは 登窯広場展示工房館 にある窯。 1926年ごろに作られ、 1980年まで現役だったそうだ。 当初の燃料は石炭だったが、 1950年代からは重油にとって変わった。 窯の正面に入り口が2つあるから 「 両面焚倒焔式角窯 」という名。 (りょうめんだきとうえんしきかくがま) 工房の前には思い思いの陶像が… これは毘沙門にゃん?? 愛嬌のある奴もいた。

とこなめにきたにゃん四 ドカンと一発やってみよう?

イメージ
常滑って常に滑る って書く。 まさに虎次郎のようで… なんか懐かしい風景とともに、 再び訪れたい風景がそこかしこに。 細い坂道が無数に走るのだが、 比較的温暖な知多半島でも、 道が凍ることもあるのだろう。 すべり止めとして 埋め込まれた土管たち。 ここのは 「 ケサワ 」ってのが埋め込まれている。 窯の床部分と製品とが接する部分、 敷かれたのが円形のケサワである。 直接火や灰が 触れてはいけない 製品を焼成する際に使われた サヤっていうのは常滑では 「 エゴロ 」って呼ぶそうである。 エゴロは、何度も繰り返し徹底的に再利用… それでもいずれは使用に耐えなくなった。 それさえも廃棄するのではなく、 連房式登窯の階段部分として使用したそうだ。 ここまで詰めているのは、 きっとオブジェなのだと思うが… 焼酎瓶の製作と同じ技術を用いて、 第二次世界大戦中には 塩酸瓶 と称される 薬品を入れるための瓶なども作られた。 土管も焼酎瓶も焼成過程において 出荷できない品が生じたのだが、 中空の土管に細かな陶器の端材を詰めて、 徹底的に利活用した。 そして時が移って「 土管坂 」として 観光資源として再利用ってこと。 1900年頃は土管は まだ瓦素材だったそうだが、 強度に問題があるため、 横浜にいたブラントンの要望で、 常滑の 鯉江方寿 に注文が入ったそうだ。 「 鯉江方寿翁陶像 」 鯉江方寿 (伊三郎1821〜1901年) は、 常滑焼の陶祖と言われる人。 急須作りの中国人の招聘や 美術研究所の開所、 埋立て事業など、 常滑の礎を築いたのだそうです。 1916年につくられたものだが、 常滑西小学校ちかくの高台である この地に移されたのは1921年のこと。 土管の話に戻す。 それから木型で規格化された 土管の技術が広まり、 常滑で広く生産されるようになった。 そこからおよそ100年間は、 生産量日本一を誇っていった。 本当に凄いことである… 今から 100年も続く産業 が出てくることは、 まずありえ無いかもしれないよね。 ガラスで蓋をして、 金魚鉢 にされている土管もあった。 現在塩ビ管やコンクリートの