マッサンの山崎をたずねて〜油神人・山崎長者をたどる
かつて山崎には油座があった。
鎌倉・室町時代に灯油用の油を荏胡麻(えごま)から製造していたという。
山崎の「離宮八幡宮」。
常夜燈にある「石清水八幡宮」の文字、
八幡宮の神事である
「日使頭祭(ひのとさい)」を勤めたため、
朝廷・幕府から荏胡麻油の販売を
認められていたのが「油神人」。
「本邦製油発祥地」といわゆる所以であります。
社寺に灯油を献上するなどの奉仕のかわりに、
余剰油の販売を許された専売人でもあったのです。
関銭免除の特権や製造、販売の独占権...
虎次郎の卒論テーマの「信貴山縁起絵巻」に
登場する「山崎長者」のルーツがここに。
「信濃の國の命蓮という僧が、
奈良で受戒をすませ、
そのまま大和の信貴山にこもって、
毘沙門天を祀って修業を重ねていた。
里にでることもなく秘法をもって鉢を飛ばしては、
それに里から食べ物を運ばせていた。
その頃、山城の國の山崎の長者の家に鉢を飛ばせた。
長者はいつもその鉢に施しものをしていたが、
ある日家人がこの鉢を
米倉の中に入れたまま戸を閉めてしまった。」
「時ならぬ家鳴りとともに、
鉢が倉の中から飛び出してきて鉢の上に倉をのせ、
空に舞い上がり、彼方へ飛んでいった。
皆、宙を飛ぶ倉に仰天、長者は驚いて馬で追いかけると、
僧の修業している信貴山まで来て、倉はドサッと落ちた。」
倉は信貴山に残り、飛鉢にて米俵のみ再び、
山崎に戻ったという話。
命蓮はかなり倉が欲しかったのだろうね。
校倉造りだから長者の倉も相当なものだった。
離宮八幡宮の神紋は「三本の杉」。
石清水八幡宮と同じなのです。
大和の三輪神社、近江の建部神社なども。
常緑高木、真っ直ぐに神さまの紋章として、
この上ないデザインなのである。
平安時代の後期になって、
津として栄えたこの地の人々の中に、
荏胡麻の油絞りの道具を考え出した者が
おったそうです。
「長木」という搾油器は
「しめ木」とも「油木」とも呼んだようですが、
「信貴山縁起絵巻」のもその姿が見えます。
安土桃山~江戸時代には、
《離宮八幡宮絵図》
「西の日光」と呼ばれるほどの
壮大な社殿が広がっていたとか...
室町幕府が崩壊して信長が特権を白紙に、
秀吉はふたたび保護したようですが...
その後は菜種や綿実に取って代わったようです。
大山崎町歴史資料館 蔵