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『百日紅』浮世絵伝〜北斎「美人愛猫図」

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《 美人愛猫図 》 (びじんあいびょうず) 葛飾北斎 画、絹本着色、1幅、江戸時代 『 百日紅 』を観たのは朝イチだったので、 天王寺公園内の大阪市美でやってた シカゴから里帰り日本初公開の 「 肉筆浮世絵 美の競演 」。 いつもチェックしてる「 美の巨人 」でも これは二度と見れんから行っとこう… と思っていたので(・ω・)v 浮世絵の展示ってとにかく・・・ 立てこんでてモノも小さいので、 大々行列だろうなと思っていたのですが、 意外と日曜日なのにゆったりと観れました! 6月21日までやってはりますよ。 で…北斎の「美人愛猫図」を 愛猫図とあるが愛らしい?? ただ猫は年老いているように見ゆる。 貝殻を砕いた胡粉にて白粉を はたくように何度も薄く重ねた白肌。 対峙的に女性に大事に抱えられた猫は、 お世辞にも可愛くなく不気味な風貌。 女性に目線を戻すと愛おしさより哀れみ、 もの憂えげで寂しそうに見える。 こちらは 磯田湖龍斎 ※ 同題の、 《 美人愛猫図 》(東京国立博物館 蔵)。 『源氏物語』「若菜 」での物語、 「 女三の宮 」の見立になっているお題。 女三の宮を題材した浮世絵は、 数多くあるらしいそうですが、 北斎とはちょっと構図が異なっています。 「女三の宮」での猫の登場はこんな感じ… 蹴鞠の遊びで疲れた夕霧と柏木が 寝殿西面の階 (きざし) に 腰掛けて休んでいたちょうどその時、 首紐の付けられた小猫が 大きい猫に追いかけられて飛び出した。 首紐は御簾の端を捉え、 ちょうど女三の宮が立っている前の 御簾を跳ね上げた。 柏木の目に源氏の正室となった 女三の宮の姿が飛び込んできたという。 《 女三の宮と猫 》 鈴木春信 画  (ボストン美術館 蔵) こちらの猫にも赤い長紐がはっきり。 「 美の巨人 」解説  河野元昭 さんによると、 北斎は光景を写実的に描いたのではなく 源氏物語にある物語が埋め込まれていて、 そこには見たままを写し取るのではない 芸術家としての魂を注ぎ込まれていると… 版画ではなく肉筆画であるからこそ 、 北斎の筆致がたど...

『百日紅』浮世絵伝〜歌川国直

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《 二美人図 》歌川国直 画, 双幅  (1830-54年ごろ 東京国立博物館) 浮世絵の “浮世” というコトバは、 昔の仏教用語の一つ。 はかない世、苦界、無常の世 ということを指しています。 江戸の町人たちは、 喜びと楽しみに満ちた現世で、 それぞれに置かれた ポジションで満喫していました 。 そんなことをイマに伝えるモノ、 それが「 浮世絵 」というものなのです。 『 浮世床 』挿絵 歌川国直 筆 市民生活をあざやかに描き出した 江戸後期の代表的な滑稽本に 『 浮世風呂 』という作品があります。 作者 式亭三馬 (しきてい さんば) は、 自身も古本屋を営んでいた戯作者。 もう一つの代表作が『 浮世床 』、 その挿絵を描いたのが 国直 その人です。 国直は信濃国の生まれ、 初めは 明画 を学んでいたようですが、 葛飾北斎 に魅かれて 豊国風 を学び、 初代豊国の門人でありました。 師名「 国 」を字を許されて 歌川国直 と称するようになりました。 《 関三十郎 七役相勤申候 》 忠臣蔵の七役を演じる 関三十郎の役者絵 役者絵を得意としただけに、 場面設定や雰囲気描写にも 手を抜かないので絵草紙類では、 国貞 と比肩する非凡さを発揮! 判官が切腹の処分を申し渡され、 すでに覚悟を決めていた判官が 由良之助を待つ場面です。 《 浮絵忠臣蔵・四段目之図 》 北斎の得意とする「 一点透視法 」、 中央奥の判官を注目させて、 奥行きの深さはまさに絶妙です。 歌舞伎では唯一このシーンでは、 遅れてきた客や弁当の差し入れなどの 外部の出入りを遮断する という、 静寂で厳粛なシーンなのです。 題目の “浮絵” は浮世絵の種類の一つ、 西洋絵画から取り入れた 遠近透視図法 を用いられていて、 焦点が画面の奥にあるのです。 いわゆる「 消失点 」に向かって 奥へと立体感が構成されています。 《 浮絵忠臣蔵・十段目之図 》 「 国直 」 新進気鋭の絵師、十九歳。 歌川一門の門弟だが 北斎を尊敬している。 芯のある女が好みで、 お栄 に対して好意を寄せる。 『百日紅』映画パンフより 最後に・・・ 大阪市立美術館で里...

『百日紅』浮世絵伝〜善次郎こと渓斎英泉

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「池田善次郎」こと 渓斎英泉 の 《 傘に美人(瓢模様) 》… 粋な江戸の装いを引き立たせる蒼。 「 北斎ブルー 」とも呼ばれる 青い鉱物顔料・ベロ藍ってのです。 江戸後期にオランダを経由して 日本に入ってきた化学顔料で、 ベルリンで最初に作られたもの。 ベルリン藍がなまって「ベロ藍」 と 呼ばれるようになったと言われています。 《 玉屋内花紫 》 浮世絵ってファッション誌のようなもの。 流行に敏感であるということは、 浮世絵師は当時の 工業デザイナー でも あったように思います。 浮世絵の技術が進んだ江戸後期は、 芸術というよりも商売の道具でした。 《 美人東海道のうち 日坂駅 廿六 》 北斎や広重な浮世絵の巨人たちを、 歌川国貞 や 渓斎英泉 のように、 のちの時代には名前さえも 忘れ去られる存在の浮世絵師たちが、 浮世絵という芸術の裾野 を しっかりと守ってくれたお蔭にて、 いろんな趣味趣向が求められる イマに至って“美術史的”な 評価を受けつつあるようになったのだと… 《 当世まつの紫 傾城音羽の滝         新内なかし 》 英泉の画風って??? マジメな学者たちを悩ませていました。 写楽なら役者絵とか、 歌麿なら美人画といったくくりがしづらい。 英泉は商売のための量産タイプ。 《 江戸八景 両国橋の夕照 》 風景画の構図もなかなかヨスです。 浮世絵にかぎらず展覧会で絵をみると、 どこか気むずかしく静かな 仄暗い場所で 鑑賞させられる 。 ただ、浮世絵が生きていた時代は、 “ 枕絵 ”とも言われていたのですから、 恭しくは扱われてはいなかった ということ。 《 契情道中双録 尾張屋内 満袖 》 浮世絵らしくないって評価。 「 浮世絵戦国時代 」にあってその多くは、 まさに“使い捨て扱い”だったのですから、 至極当然なのかもしれません。 たった 200年前の話ゆえに、 新しいものをただ追い続けてきた 日本の歩みは駆け足過ぎだったのでは? 在外に遺る浮世絵師たち の業績に 再び日本で触れると、 古めかしくない新しさを感じます、 遠い昔と思っているけど… 実はつい昨日の...

『百日紅』浮世絵伝〜初五郎こと魚屋北渓

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『百日紅』にはいろんな 浮世絵師が登場していました。 もとは 杉浦日向子 さんが 24歳のときに 手がけられた作品で、 確かな時代考証によるものなのです。 シリーズで 応為の人脈 をたどります。 「 岩窪初五郎 」 北斎の門人で、 もとは魚屋であったことから、 画号は 魚屋北渓 (ととや ほっけい) 。 魚商から浮世絵師に転身したとか。 一説には松平志摩守出入の 魚屋であったとも伝わります。 34歳にして独り身。 劇中では応為である「お栄」が 想いを寄せる相手として登場しています。 《 鬼若丸の鯉退治 》(1830-35 天保年間) 彼の錦絵の作品はそれほど多くなのですが、 ボストン美術館 のコレクションでして、 なかなかの圧倒感をみせています。 鯉は龍につながる魚 ですので、 荒れ狂う気性と対峙する鬼若丸の姿。 鯉をさばくことも業としていたから、 魚の表情がなかなかヨスです。 鬼若丸とは 武蔵坊弁慶 のこと。 比叡山横川の池で身の丈八尺もある 巨大な鯉が暴れ、女子供を食い殺し、 人々を苦しめていた。 それを聞いた鬼若丸が短刀ひとつ携えで、 池に飛び込み見事に鯉退治という伝説。 山車などの彫り物にもみられるお題。 《 江島記行 神奈川 》  (神奈川県立博物館) 江の島土産などを描いた作品。 蛸、河豚、平目 、赤い魚は ホウボウ ? 盆に隠れそうな 沢蟹 もいます。 魚がのる盆には朱で「はねさわ」、 神奈川宿の青木町にあった旅籠の名です。 北溪の師譲りの観察眼が発揮された逸品。 画号は葵岡、拱斎、葵園、 呉北渓などを使い分けたようです。 寛政12年頃から嘉永元年のころ、 1800から1848年にかけて 彼の画歴が認められています。  《 諸国名所 駿州 大宮口登山 》       (1834-1835) 魚物でないものを… 目玉おやじがウジョウジョと。。。 諸国名所ではこんな風景も描いています。 駿河湾から甲州へ入る道のひとつ、 吉原湊から大宮へその後本栖湖から 甲府に入る「 駿州中道往還 」といわれる 街道沿いに「大宮口」があります。 ...