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大津絵の伝承者たち⑨ 河鍋暁斎

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《狂斎百図》より  「大津絵の戯」  1863-66年 河鍋暁斎 という絵師… 2019年のちょうど今ごろ 東京の サントリー美術館 で、 「その手に描けぬものなし」 という展覧会がありました。 幕末明治という時代転換期を クロスオーバーした画家、 狩野派と浮世絵を 自在に描いた人 … 狂斎 とも号しました。 《風神雷神図》 1871年 「風神雷神図」は、 俵屋宗達 や 尾形光琳 の 国宝があまりにも有名… 琳派のお家芸 ですが、 狩野派も伝統的に得意 としてきた画題でした。 これまでにない構図、 雷神が大切な太鼓を 海に落として、 鉤で釣り上げている様は、 まさに 「雷公の太鼓釣」 。 《鷹に追われる風神図》  1886年 こちらでは風神が、 鷹に追われていて… こんなの描かれたら、 風神の威厳もありません。 「暁斎にとって大津絵の  キャラクターたちは、  徹底してユーモアを  創出するためのツール」 ※ だったと評されています。 《狂斎百図》より 「大津絵の東下り」  1863-66年 富士山を背に藤娘、 鬼の念仏たちが川を渡る。 《狂斎百図》は諺 を テーマにした連作なのですが、 この大津絵画題のものには、 図像の表題が付されいます。 《応需暁斎楽画》  地獄の文明開化 大津絵画題ではありませんが、 錦絵として描かれた図。 文明開化の波が、 地獄まで押し寄せたと… 地獄なのに文化に流される とはいかにも滑稽です。 《閻魔と地獄太夫図》 かつて… ブログで紹介した作品。 画調としてはよく似た 《大津絵風雨帖》 なる 画帖の「藤娘と座頭」。 ブログにアゲられないモノ、 エロチック過ぎるのです(T_T) 暁斎の機知に富んだ 闊達な発想力を存分に 発揮し得るモチーフが 大津絵画題であったと、 言えるのでだと思います。 《浮世絵大津之連中睡眠の図》  1870年以前 眠る 釣り鐘弁慶 や 鬼の念仏 、 口に錠前を付けられた 槍持ち奴 。 弁慶の夢とみられる大天狗の 鼻に群がる人たち… 「暁斎の得意とした  何らかの時勢風刺が  意図されたものと推察され、  暁斎が風刺という方面に  明確に大津絵の画題を  使用している唯一の例」 ※とか… 《新富座妖怪引幕》 左部分 1880年  暁斎が盟友でもあった 戯作者・新聞記者の 仮名垣魯文 の依頼で...

大津絵の伝承者たち⑧ 富岡鉄斎

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《小黠大胆》  富岡鉄斎 1920年  東京国立近代美術館 蔵 画工とみなされるのを嫌い、 終生学者を自任 した 富岡鉄斎 という人。 「南画の根本は学問にあり、  人格を研かなくては画いた  絵は三文の価値もない」 との言葉を遺しています。 如拙「 瓢鮎図 」と 同系画題の小黠大胆 ( しょうかつだいたん ) つるつるした瓢箪を捕まえる… 人生の艱難辛苦への挑戦、 人間性を大悟させるの意味。 人を猿に変えて表現 するのは、 まさに 大津絵の潮流 。 《擬土佐又平筆法   遊戯人物図》  富岡鉄斎 1912年 大津絵の祖 岩佐又平 を 師と仰いでの図。 賛には… 「絵画は私の遊戯であって  変わっているところを  重要視する。  人物画の名手であった  晋の顧愷之は、人物画の  瞳に容易に点じないで、 「伝神写照、  正に安堵の中に在り」  といったが、  大津絵の岩佐又平は、  まことに人物画が  すぐれているから、  私は又平を  わが師とするのである。」 《福神遊戯図》  富岡鉄斎 70歳代 「大黒と外法の相撲」 「福と寿のすもうを見れば  大方は福が寿命を  引き倒(こか)すなり」… 《大布放賭図》  富岡鉄斎 1919年 アイテムである 俵と小槌 、 大きな 袋 を放り出して、 双六を楽しむ 大黒と布袋 。 南宋の 洪遵 撰の『 譜双 』、 日本の双六の記述を引き、 珍しい文献であると、 款記に記しています。 書物に精通した 鉄斎ならではの逸品。 《七福遊戯図》  富岡鉄斎 60歳代 いわゆる紅一点… 輪になって 弁財天 を 引き合い戯れる男神たち。 《寿老人像》  富岡鉄斎 1924年 子どもが仙桃を捧げ、 寿老人は寿を祝う 縁起物「 鳩杖 」を点く。 《寿老図》  富岡鉄斎 80歳代 頭上は鳥ではなく、 コウモリ なのです。 西洋とは異なり中国では 幸運の象徴だとか… 瓢箪でもうひとつ… 《瓢中快適図》 「心の欲する所に  従って年を知らず、  逋適逍遥我が天を全うす、  閑臥書を枕にす安楽境、  長生何ぞ必ずしも  神僊を羨まん」 瓢箪のなかにい...

大津絵の伝承者たち⑦耳鳥齋

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《相撲之図》 勢いよく投げる力士… 上がる軍配… そして湧き上がる観戦! 熱気があってこそ!! くたばれコロナウイルス !! 《絵本水や空》 1780年 脱力しきった歌舞伎役者 … ゆる〜〜〜い表情は 耳鳥斎 という絵師の 筆によるものです。 《十夜会図》 江戸時代後期  熊本県立美術館蔵 檀家たちの背中は、 笑いをコラえているのか。 僧侶のお経はきっと、 やさしい調子なのでしょう。 戯画の先人・ 与謝蕪村 の 影響も感じられる耳鳥斎は、 商人の町ならではの 自由闊達な気風に育まれた 大坂の江戸文化人を担った人。 《別世界巻》「芸子法師の地獄」 画題は江戸中期に遡る。 三味線にされた哀れな 男を撥ではなく爪で弾く。 「鬼の三味線弾き」 の意味は、 酒や音曲に惑わされやすい 男性に対する警告 だとか… 気をつけねばなりません😁 鐘がわりにされたり… 大坂 京町堀で商いをする傍ら、 絵や浄瑠璃を嗜んだ耳鳥斎。 にちょうさいと読みますが、 俗名は松屋平三郎。 「世界ハ是レ即  チ一ツノ大戯場」 と… 『絵本かつらかさね 』で語り、 堅苦しい世間を喝破し 笑い飛ばした人でした。 こちらは付け替えられたり… 鳥羽絵を源泉 にして 作画したとも言われるが、 耳鳥齋本人は それを否定しているとか… 「和尚の地獄」… 中谷伸生さん ※は、 こう解説されています。 「江戸絵画史上に見え隠れする  大津絵の図様は、  さまざまな画家たちが、  束縛に縛られ、  枯渇した自らの想像力を、  生き生きとした源泉に  還そうとしたわけで、  そこに大津絵が  見出されたのではなかろうか。  平たく言えば、   画家の想像力が枯渇したときに、  最後に選ぶ存在、  それが大津絵ではなかろうか。 」と… 「大根役者の地獄」 大根と一緒に煮付けに… こっちは磔にされて大根を 咥えさせられてる… 「尻道好の地獄」 楽しんどるやん( TДT) たぶん僕は… こんな感じになるのでしょう。 どの鬼も憎めない 表情がならんでいます。 「煙草好の地獄」 キセルにされちょる ...

大津絵の伝承者たち⑤ 久保田米僊

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明治の鬼才と呼ばれた 久保田米僊 が描いた 藤娘 。 米僊は1852年(嘉永5)に、 京都市中京区にて 料理屋の一人息子として 生まれました人。 家業を継がねばならない 立場でありながら、 絵筆ばかり握っていたとか… 16歳のとき 京都四条派 の 鈴木百年 に弟子入り… 漢学・漢詩を学び、 画業は日本画の伝統に 留まりはしませんでした、 南画や洋画の技法も 積極的に採り入れたそうです。   定番の画題も米僊にかかると、 こんな感じで描かれます。 久保田米僊の名は知らずとも、 この絵はご存知でしょう。 とりわけ 同志社関係者 なら… 近代ジャーナリズムの世界で 久保田米僊は著名な存在、 徳富蘇峰 は繋がりがあって、 1月23日に 新島襄 が亡くなると、 臨終を描いてもらったのです。 《 平壌乗取之図》 日清戦争画報 より 蘇峰が 『国民新聞』 を 創刊したのは1890年のこと、 新島襄永眠の年と同じ年です。 『国民新聞』から日清戦争の 従軍画家 として派遣、 日本画家の枠をこえて 名声を高めました。 実はこうした 従軍画家 の キャリアもあってか、 実作品が美術史研究で 取り上げられることは、 極めて稀だったとか… 米僊の大津絵をみると、 時代に 翻弄されずに 描きたかったのでは? 多才であるが故の 宿命を 感じさせられます。

大津絵の伝承者たち④ 小川千甕

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《西洋風俗新大津絵》 パリのギャルソンが 客のスーツケースを 運んでいる姿を描いた 「旅館のおとこ」 。 《大津絵十種(釣鐘弁慶)》  1894年 久保田米僊 これが元ネタか? 《西洋風俗新大津絵》 「さすらひの楽師」 小川千甕 (1882-1971)は、 絵仏師の修行を積み、 その後  浅井忠 に師事、 明治末の上京後は、 挿絵や漫画を手がけて 好評を博した人です。 《西洋風俗新大津絵》 は、 1914年に描かれたもの。 《西洋風俗新大津絵》 「ホーレンダムの娘」 千甕自身のコトバ 「原始的なうぶな色彩が 私の筆の穂に扱われてある間は 俗世の忘年邪念も私の頭の内に 潜入して来ません」と… 《西洋風俗新大津絵》 「ダンスの女」 第一次世界大戦の直前に、 留学見聞した西洋の風物を 大津絵として描いています。 ただモチーフそのものは、 大津絵画題へのコダワリは、 薄いように思えます。 《西洋風俗新大津絵》 「パリの辻待馬車の馭者」 墨の部分は 木版摺師の刷り 、 そして 泥絵具で平面的 に塗る。 紙は間に合い紙のようにも… 泥絵具による単純な色彩、 スタイルとしての大津絵の 伝承者なんでしょうね。 《西洋風俗新大津絵》 「村の娘(南ドイツにて)」 「私はこの頃例の 西洋風俗新大津画に 没頭してゐます、 …雨ふりの静かな日、 丹とか黄土とか云ふ 如何にも日本の地面から 採取さてたと思はるゝ 所謂泥画具で、 のんきな気分で ゑどつてゐるのです」※1 《自画像》1969年 千甕(せんよう)という雅号は、 京都市立陶磁器試験場の 絵付け技手 となったことを 契機にを自ら名付けたもの。 仏画師、洋画家、 漫画家、日本画家… さまざまな顔を持った千甕。 仙厓の作品 を好んだとも 伝わっています。 《西洋風俗新大津絵》 「南伊太利の飾り馬」 南イタリアの飾り馬を 描いた一枚ですが、 神馬を意識 しているとか… 千甕はセザンヌを崇拝したが、 セザンヌに「脱俗的世界」 を 見たのだそうです。 《西洋風俗新大津絵》 「ベニスのゴンドラ」 京都文化博物館 の 植田彩芳子 さん曰く、 「…小川千甕の試みは、 浅井忠の衣鉢を継いで、 新たな画題で 今様大津絵 を 生み出した点に 新味があったと言える。」※2 《西洋風俗新大津絵》 「独逸の大学生」 脱俗 への志向、 ...