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岸和田モダンをあるく〜蛸地蔵駅

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「岸和田モダンをあるく」 ラストは… 帰りしなに南海電車に乗った 本線 蛸地蔵駅舎 です。 大正末期に建てられた、 屋根が折れ曲がった妻面を 正面と左右に見せる洋風駅舎。 見どころは ステンドグラス 。 戦国時代に岸和田城主と 根来・雑賀衆の 岸和田合戦 が描かれています。 岸和田城は根来・雑賀衆に 攻められ落城寸前に、 その時、大蛸に乗った一人の法師と 数千の蛸 がどこからともなく現れ、 凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、 城の危機を救ったというお話。 その数日後、 城の堀から矢傷・弾傷を 無数に負った地蔵が発見され、 城内に大切に収められました。 こちらが… 岸和田南町の「 天性寺 」に伝わる 「 蛸地蔵(聖地蔵尊)縁起絵巻 」。 見れるのは年に一度の 蛸地蔵「 千日大法会 」だけとか… ちなみに「 蛸断ち祈願 」という、 このお寺らしい願の掛け方。 お地蔵さまに願いが届いて、 ご多幸に恵まれる?? のやもしれません。 天井の照明に テラコッタ。 壁には陶板画がありました。 下り線の駅舎はこんな風でした。 「南海蛸地蔵駅舎」 建築年:1925年(大正14) 設計 :南海電気鉄道

岸和田モダンをあるく〜五風荘

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岸和田城の近く「 五風荘 」へ。 「 がんこ岸和田五風荘 」としての オープンは2009年9月からとか… 天ざるとネギトロ巻セットを いただきました(・ω・)v もともとは岸和田城二の郭の 新御茶屋 薬草園の跡地に建てられた 寺田財閥当主家別邸 でして… 1929年(昭和4)から10年かけて、 岸和田の富豪 寺田利吉 さんが 造営されてものです。 岸和田にゆかりの深い 楠正成 に因んで 「 南木荘 」と 称されていたそうですが、 利吉の諡号 五風院 より、 「五風荘」に改められました。 こちらは、 敷地内に三つある茶室のひとつ。 「 八窓席 」という名。 1990年ごろに マンション建設計画が 持ち上がったのですが、 岸和田市土地開発公社を経て 岸和田市に移り現在に至ります。 敷地内の建物などは、 1998年に 国の登録有形文化財 に なったそうですが… 2008年に 岸和田市の指定有形文化財へ。 そうなると… 登録有形文化財抹消 されるそうです。 地方自治体でも「指定文化財」だと、 昇格ってことになるらしい。 最近では 朝ドラの「 カーネーション 」の ロケ地にもなったことで有名です。

岸和田モダンをあるく〜岸和田城

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岸和田のシンボル岸和田城。 上棟札には「 再建工事 」とあるので、 いわゆる復元工事ではないのです。 鉄筋コンクリート造りで、 三層の天守閣が再建されたのは、 1954年(昭和29)のことです。 戦後間もないころに、 岸和田市民の寄付金 で 実現したのですからスゴいです。 市役所庁舎の周辺も、 当然城内であったそうですが… 「 史蹟 岸和田城址 」の石碑は、 なぜか庁舎前にあるのです。 実は増築を繰り返していて、 最も古い部分は天守閣と同じ、 1954年ということからすると、 まさしく城とともに 戦後の岸和田の 出発点であったのです。 戦国時代末期は、 松浦氏 の居城となっていました。 秀吉の時代にはここを拠点に、 いわゆる根来寺勢力を一掃。 その後、叔父の 小出秀政 を城主に、 天守閣は秀政のときに 建てられたのがはじめのようです。 豊臣氏滅亡後は、 松平氏二代を経たのち… 寛永17年(1640)以降は、 摂津高槻から 岡部宣勝 が入城し、 明治維新まで治めたとのことです。 大坂の南の守りとして、 西国支配の重要地でありました。 天守閣は落雷によって 文政10年(1827)に焼失… 絵図などでは本来は五層天守、 「 模擬天守 」という位置づけで、 今ならかならずストップが かかるのかと思います。 府土木部計画課からも当時、 「 復元ではないので許可しない 」 と 指摘があったそうです。 「岸和田千亀利城天守」 建築年:1954年(昭和29) 設計 : 池田谷一級建築士事務所(池田谷久吉) 構造 : 鉄骨鉄筋コンクリート造、      大屋根部分-鉄骨下地      木造三層五重本瓦葺き

岸和田モダンをあるく〜泉州銀行 本店

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泉州という地域の中心は、 やっぱり岸和田なのです。 というのも泉州地域の金融機関は、 「 泉州銀行 」なのであり、 この地をリードした外観は いまなお風格を失っていません。 設計は 村野藤吾 さん。 「 自泉会館 」を設計した 渡辺節 の門下生であったから、 この仕事を受けたのだと…。 一階部分の シブ鉄の格子戸 、 鎧のような雰囲気が漂います。 上部に横線のきいた連続窓。 鎖を繋げたか のよう。 安達秀俊 さんは図面から、 こんな風に読み取られています※。 「1層部は、  正方形の開口部が深い影を落とす。  3層部には、  総数27個の正方形の窓が 花崗岩の  フレーム枠ドルを 連続して整然と並ぶ。  村野の蔵書の『ル・コルビジェ全集』の  表紙の裏に、 左側にアプローチをみせる  スケッチが残る。 この計画のために、  ル・コルビジェの幾つかの 作品が  参照されと考えられるが、 それは  1階平面図をみるとよくわかる。」 泉州銀行本店の シンボルモニュメント 羊 。 村野さんにとって、 羊は「 商業の象徴 」でありました、 現存しないが 新大阪ビル (1958年)でも、 コーナーに使われたそうです。 (南都銀行本店 イオニア式円柱の羊) 奈良の 南都銀行の羊 も、 きっとそうなのでしょう。 格天井の造りの荘厳さとの コントラストが絶妙です。 岸和田が生んだ世界的デザイナー コシノヒロコ さんは、 池田泉州銀行の制服をデザイン されてています。 岸和田のスタイリッシュさを、 受け継ぐ存在であり続けるでしょう。 「泉州銀行 本店」 →「池田泉州銀行 泉州営業部」 建築年:1959年(昭和34) 設計 :村野・森建築事務所(村野藤吾) 構造 :鉄骨鉄筋コンクリート造 所在地:岸和田市宮本町26-15 ※参考文献 『村野藤吾のファサードデザイン  図面資料に見るその世界』国書刊行会,2013年 「紀州街道沿いのファサード 泉州銀行本店」安達英俊

岸和田モダンをあるく〜自泉会館

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岸和田紡績の創設者の 寺田甚与茂さんへ贈られた 慰労金を基にして、 跡を継いだ甚吉さんが建てた 寺田財閥の倶楽部「 自泉館 」 。 会館前に立つ 寺田甚与茂 さんの胸像。 寺田甚与茂(1863-1931)は、 岸和田に設立された 第五十一国立銀行の支配人を 努めるかたわら、 明治20年には第一煉瓦会社 (後の 岸和田煉瓦 )を興した人。 「 岸和田近代の父 」 とも称されています。 ベイス(飾り壺) が 左右に置かれています。 1932年に 渡辺節 の設計、 大林組の施工で建てられたもの。 1943年(昭和18)に岸和田市に寄贈、 集会場や貴賓室など市の施設として、 利用されていました。 終戦直後に 金属接収 され、 面格子、シャンデリア、階段手摺が 失われていますが、 その後の改修を経ならがも、 竣工当初の意匠が保たれています。 1950年の ジエーン台風 では、 大ホールのステンドガラスが破損。 建設当初はこんな風だったとか。 演奏会リハーサルのため、 入口からパチリと。 ホール部分の外観はアールの付いた ガラス窓が付けられています。 設計者の渡辺節さんと 寺田甚吉さんの関係は、 会館計画に先立った自邸の設計。 寺田邸洋館 (芦屋)、 岸紡大垣工場 、 寺田合名ビル (大阪市)など、 会館に前後して多くの仕事を こなしたようです。 渡辺節は、 東京帝国大学建築学科を卒業後、 1916年(大正5)より大阪・東京で 渡辺建築事務所を開設。 商都大阪の紡績会社の社屋や、 港町神戸の商社関係の仕事を、 多く担当したとして知られています。 内部は古典的で豪華な雰囲気が いたるところに… 曲線多用の変化に富んでいます。 スパニッシュ風 で装飾の少ない シンプルな外観とは対照的です。 「岸和田市立自泉会館」 建築年:1932年(昭和7) 設計 :渡辺節建築事務所 構造 :鉄筋コンクリート造り2階建て 所在地:岸和田市岸城町5-16 【国 登録有形文化財】 このブログは岸和田文化事業教会 自泉会館の紹介 を参考にしました。