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いのちどぅ宝の島へ⑦ 斎場御嶽 vol.3 サングーイへ

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サングーイ へ! 神の審問の眼を思わせる 鋭い 三角形 の大きな空隙。 光が差し射るとさらに 神々しいシーンが、 みられるのでしょうね… さらに進むと… ここが「 三庫理 」 御嶽の最も奥にある この下には 金製勾玉 などが 鎮められていました。 中国青磁器・銭貨など、 「 斎場御嶽出土品 」。 国の指定の 重要文化財 、 御嶽という聖地のなかの、 さらに気高い場所より出土。 「 チョウノハナ 」と 呼ばれる場所には、 香炉 が残されています。 斎場御嶽の6番目の拝所、 金製の9枚の 厭勝銭 ※1 、 上層からの出土のうち、 1679年に初めて鋳造された 新寛永通宝 ということもあり、 これらの埋納は、 17世紀末を遡らないそうです。 2本の 鍾乳石(チータイイシ) から 滴り落ちる下には… 奥が 「シキヨダユルアマダヌピー」 手前が 「アマダユルアシカヌピー」 中城御殿 (国王の世子)と 聞得大君御殿 の吉兆を占う、 正月の 若水取り の儀式にも 使われたという霊水とのこと。 「 大庫理 」での就任の儀式で 額に水をつける神事もこの聖水。 沖縄の正月は若水汲みから… 元旦の朝は湧水汲むで賑わう。 東方を向いて祈願し、 火の神や仏壇に供えます。 シキヨダユルアマガヌピー… 「 しきよたる雨か美御水 」 アマダユルアシカヌピー… 「 雨たゆるあしかの美御水 」 という意味だそうです。 かつては 黄金の壺 だったとか。 このあたりの聖域の巨岩は、 こんな感じの構成でして、 左側には神が降臨したとされる 久高島 が遠望できる場所。 御嶽は 古神道のありようを 伝える と言われていますが、 神社と御嶽には、 2つの異なる点…。 一つは 社殿があるかないか … 律令体制のもとで、 国が神社に社殿を 設けさせようとしたようで、 仏教寺院の影響が大きかった。 ではなぜ沖縄では、 社殿を持たないのか。 理由のひとつが 財政上の問題 、 とりわけ御嶽の場合は、 森は神の来遊する場所と 信じられてきました。 その 木を伐って社殿を 建てることは、 まさしく神意に背くこと 。 もうひとつは神社の社主、 神主は男性 ですが、 沖縄ではどこへ行っても、 本島では ノロ 、 宮古・八重山は 司(つかさ) と 呼ばれる 神女 がおられるのです。 大和朝廷に...

いのちどぅ宝の島へ⑥ 斎場御嶽 vol.2 ウフグーイへ

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御嶽の中心をなす 「大庫理」(ウフグーイ) と呼ばれる拝所へ… レンタカーでの旅と 高をくっていたので、 履きなれない 靴が痛い(T_T) 斎場御嶽はとにかく広い… 雨が降ったあとの石畳、 挫けそうになったのですが、 奮起して… ちなみにここ斎場御嶽は、 「琉球王国のグスク及び       関連遺産群」 の一つなのです。 今帰仁城跡、座喜味城跡、 勝連城跡、中城城跡、 再建された首里城、 守礼門・歓会門・正殿など。 せーふぁ とは… 霊威の高い聖なる場所 のこと。 ウフグーイ のことに戻ります 「神歌を謡う神女たちに  囲まれた聞得大君が、  ここ大庫理の神座に  着座すると、  [ 久高島の外間ノロ が]  聖水を大君の額につけ  御水撫(うびいなでぃ)をする。  大君の頭上に玉御冠を乗せ、  洗米を数粒つまみ、 「聞得大君美御すじ」 を  唱えながら霊感づけをする。  その瞬間、  神女たちは総立ちとなって、  今しも神となってニライへ  旅立をする大君を祝福する 「 ヤラシクェーナ 」の歓喜の  大合唱とあいなる」※1 儀式の司祭は久高島のノロ、 斎場御嶽と久高島の関係の 深さを立証しています。 御門口に至るまでの参道、 歩きやすくするために 急斜面の部分には 琉球石灰岩の階段 が 連なっていたそうです。 沖縄戦の陣地と 使用されていたことや、 土砂崩れ被害で、 様相を変えていました。 「大庫理」を過ぎて突き当り 鍾乳石の垂れた巨岩「 寄満 」、 よりみつ とも ゆいんち とも。 寄満 は 首里城 にもある建物の名、 国王のために食事を作る 厨房のことだそうで、 国内外の海幸・山幸が 集まったそうでして、 「 豊穣の寄り満つる所 」。 第二次世界大戦前まで、 年の吉兆を占う馬形の石 「 うまぐゎーいし 」が 置かれていたとか。 斎場御嶽最終回 三角岩 へ!! ※1『 沖縄の聖地 』むぎ社、1997年    湧上 元雄, 大城 秀子 著 ※このブログは 「 沖縄の聖地 御嶽: 神社の起源を問う」 を参考にしました。

いのちどぅ宝の島へ⑤ 斎場御嶽 vol.1

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かつれ 琉球王朝 の御嶽だった 「 斎場御嶽 」へ… せーふぁうたき と読みます。 ひめゆりの塔〜平和祈念公園 と巡って…レンタカー返却の 時間まで2時間ほどあったので、 ガイドブックでチラッと。 那覇からバスだと1時間、 「次来る機会を作るのは、  ムズカシイだろう」 と 思いたち向かいました。 かつては訪れる人も少なく、 斎場御嶽の広い聖域には、 人影もまばらだったとか… 観光スポットとなったのは、 2010年の世界遺産登録 、 入口に入場券売場ができ、 駐車場が整備、 観光バスのルートになった。 御嶽には 社殿がありません 。 その理由は信仰から来た 意志の結果なのでして、 「 御門口 」 (うじょうぐち) と呼ばれる入口には、 今も門も鳥居もなく、 古びた石灯籠が二基のみ。 かつてここは 男子禁制 で、 やむを得ず中に入らざるを えない男性は、帯を解き、 左合わせの女装をして入った… 「 久高島遥拝所 」から 久高島を臨むが霞む先に… 琉球王国の絶対的存在である 国王はまさに太陽 であり、 その太陽の有る方向にあるのが 久高島 (くだかじま) 。 琉球における最高神女、 聞得大君(チフィジン) 。 斎場御嶽で就任の儀式 「 御新下り 」が行われました。 古記録※ によると… 御新下りの行列は、 早朝に 首里城 を出発し、 ここ斎場御嶽 到着は 夜9時になったそうです。 斎場御嶽をなぜこの場所か? については、太陽の上る方向に その島影を浮かべている 久高島を抜き にしては語れない。 御門口から石畳の参道… 明治の頃まで鬱蒼と茂る 昼なお暗い森だったとか。 沖縄戦の陣地構築のため、 乱伐があってかつての 面影にはないのだそうだ。 ココは「 艦砲穴 」で、 鉄の暴風と言われた名残。 多くは埋められたが… 戦争遺跡として保存されたもの。 斎場御嶽 vol.1はこの辺で… ※『聞得大君加那志様御新下日記』による ※このブログは 「 沖縄の聖地 御嶽: 神社の起源を問う」 を...