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2024OKINAWAめもりーず〜中村家住宅

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「沖縄ではどんなに暑くても、  死人はでない。」 瓦師 奥原崇典 さんの けだし名言 。 蓋し と書き、 物事を確信をもって推定する意。 2024沖縄キャンプ遠征最終日に訪れた " 中村家住宅 "のことを綴ります。 「陰をどのようにつくるか」 フクギという木 が生い茂り、 敷地の外から眺めると 石垣や土盛りで囲まれ、 いかにして台風からの被害を防ぐか… " ヒンプン "という仕切り壁は、 中国の 塀風門(ピンフォンメン) という、 悪鬼の防ぐ門に由来する。 敷地の裏は石垣が積まれ、 軒先とほぼ同じ高さ。 風水からみると、南下がり西下がり、 これを吉相地とする が、 中村家は祖の賀氏 (がうじ)は 豪農 、 それらを満たす土地に建てられた。 中村家住宅の屋根は素焼きの 男瓦(丸瓦)と女瓦(平瓦)の2種類 で、 役物瓦がほとんど使われない。 接客の間であった離れ"アシャギ" の軒先、 ここには模様のある 巴瓦 やヒゲのような 役物が面戸に付いています。 そして漆喰が使われていないのです。 一番座と二番座の軒先は、 平瓦と平瓦の接続部分に 球形の漆喰飾り 。 三番座(茶の間) と 台所の軒先 には、 平瓦を2枚重ねただけの簡素な造り。 漆喰の仕上げが間の位を 区別しているのです。 裏手からみる大棟に設けられた 細長い孔を" クウキミー ”とも " イーチミー "と言うそうで、 空気抜、息をする所 を挿しています。 女瓦の上に男瓦がのる瓦の葺き方を ひっくり返して、女瓦を1枚分抜き、 男瓦の上に女瓦をのせ、 水返しに、丸瓦をたてて使っています。 よく見ると母屋とアシャギの 空気抜きは形が違うんだそうですが、 そもそも職人が違うと形が違うとか。 瓦屋根にのる シーサーは雄 。 瓦の端材と漆喰でつくる、 割った瓦を芯にして、 漆喰で肉付けしていき、 それに色をつけるのだから、 シーサーの腕前をみれば、 赤瓦の屋根を葺く力量がわかる という。 先代のシーサーは、 高倉に遺されていました。 風水に基づいた間取り、 南東が最も良い場所なので 客間のアシャギの一番座。 ヒンプンの正面に仏間の二番座。 三番座 いまは畳が敷かれているが板の間、 そして台所へと続く。 北西には  フール(豚小屋兼便所)

三女神宿る 宗像大社へ 湍津姫神祀る中津宮へ

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宗像大社総社まで来たのだから、 島を渡って中津宮へ 。 福岡県で最も大きな島は、 筑前大島 とも呼ばれ 宗像七浦 の一つ。 辺津宮 からバスで 神湊港渡船ターミナル まで、 バスでおよそ10分ですが、 あまり本数は多くはありません。 神湊港から" しおかぜ "で 15分 。 宗像市営の航路は7:40初発で日7便、 フェリーだと25分かかります。 船内にはトイレもありますが、 時間の余裕をもって… 船内はデッキもありますが、 クーラーの効いた客室へ。 " 地島 "(じのしま)を船内より、 古くは交通の要衝だった島、 黒田長政 が参勤交代の折り 立ち寄った史実があって、 殿様井戸、殿様波止など 名残りが遺されています。 大島港渡船ターミナルで レンタサイクルを借りて 中津宮 へ。 しま山である標高224mの 御嶽山 、 その麓に祀られる宗像大社 中津宮。 大島の御嶽山山頂でも露天祭祀 が 8~9 世紀にかけて営まれたとか、 遺跡のある御嶽神社は、 参道でつながれた"中津宮"の 一部とみらています。 おそらくこのラインに辺津宮が 結ばれるのではなかろうか。 60段ほどの石段を登ると… 辺津宮とも同じく " 神勅 "の額を掲げる拝殿。 永禄9年(1566)再建の本殿は、 大宮宮司 宗像氏貞 の寄進。 拝殿は1928年の戦前の内務省による造営。 「 神光照海 」と揮毫された朱塗りの灯籠。 話は少し脱線しますが… 日露戦争の局面を決定づけた 日本海海戦 、 世界最強の ロシアのバルチック艦隊 を 打ち破ったのは対馬海峡、 くしくも神宿る島・沖ノ島近くの 海域が戦いの舞台 となりました。 海上で行われた戦いを目撃した 民間人のうちのその一人は、 沖ノ島に在勤していた宗像大社の 神官の下働き をしていました。 毎年5月27日、 一般人の上陸は規制される 沖ノ島ですがたった1日だけ 入島できるのです。 女人禁制などで抽選で選ばれた 約200名の男性たち。 「 沖津宮現地大祭 」というものですが、 両国の戦没者の慰霊のため のものです。 沖ノ島に残る戦争の跡は、 日露戦争だけでなく、 太平洋戦争時は軍事拠点に。 旧陸軍は1940年に沖ノ島に砲台設置 、 戦時中は約200名の兵士が 島で生活をしていたそうです