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盛夏2025 湖東をゆく 長浜市高月町・渡岸寺観音堂

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国宝に指定される 十一面観音 は、 全国で七体 あるのですが、 日本彫刻史上の最高傑作、 最も美しいとされる観音さま、 長浜市 高月町 におられます。 祀られているのは" 渡岸寺観音堂 "、 もとは慈雲山光眼寺という 天台宗の寺院でした。 聖武天皇の御世は疱瘡が蔓延 、 人々の苦しみは大変なもの。 年号は"天平"… そもそも年号は時の帝の願いが こめられていますので、 天は大いに平らなるものでは、 なかったのです。 天平8年(736)に聖武天皇が、 越前福井の出身で加賀白山で 修行をしていた高僧 泰澄大師 に、 除災招福を勅命され、 奈良の都へお上りになる際に、 観音像を彫られたと 寺伝として遺されています。 霊験あらたかな観音として 信仰されていたようで、 桓武天皇 の延歴年間には 比叡山の 最澄 が勅を奉じて 七堂伽藍を建立するなどして、 隆盛をみせていたそうです。 転機を迎えたのが 姉川合戦 、 戦火を浴びて伽藍は焼失。 ただ観音様を敬う村人たちが、 観音様を運び出し土中に埋め、 難を免れたとか… 注目されたのは1888年(明治21)、 九鬼隆一氏や フェノロサ が、 調査に訪れたことが契機に。 1897年に 古社寺保存法 が制定、 法隆寺などの国宝指定と同じ年、 特別国宝に指定されたのです。 国立国会図書館  デジタルコレクション より 十一面観音像の多くは 頭上に十一面をつくり、 本面と合わせると 十二面になるものが多いが、 この像は本面合わせて十一面 。 一番上の面は仏頂面といわれ " 如来相 "であらわすことが 経典で決められているのですが、 この像は" 菩薩相 "で、 冠には五仏をつけています。 裏側の1面は" 大笑面 "とも " 暴悪大笑面 "ともいわれる相… 笑いっぷりがすごい。 大きな耳飾りをつけていて 顔立ちもふくめ異国風。 精巧な胸飾りは別材で、 当初のものとみられています。 体は細身でとりわけ腰が細く、 収蔵庫に展示されているので、 ぐるっと回って拝観。 絶妙な姿勢のバランス、 美形そのものなのです。 最澄の後継者である 円仁の思想に関係 するとも… 初期天台宗の木彫の 貴重な作例であるとされた。 国宝観音像にラインナッ...

盛夏2025 湖東をゆく 米原・青岸寺

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盛夏のころ米原市の 青岸寺 へ 本尊 木造聖観音菩薩坐像 は、 1375年(永和元)に 佐々木六角氏頼 により 金剛仏師 讃岐法眼 尭尊 に 刻ませたものです。 左手に 未敷蓮華 (みふれんげ)を握り、 右手は添えるようにかまえ、 右足を外にして 結跏趺坐 の形。 天台宗系の密教像 で あるとみられています。 像底部の墨書から 仏師 尭尊(ぎょうそん)は 三条門弟とあり、 京仏師の流れをくむ 仏師と考えられれています。 曹洞宗 吸湖山 青岸寺 吸湖山 (きゅうこざん)という山号… 延文年間(1356年 - 1381年)、 近江守護の 京極高氏 によって 不動山米泉寺 の名で創建。 戦国時代焼失、慶安3年(1650年)に 彦根藩主 井伊直澄 の命により、 敦賀の住民 伊藤五郎助 の援助を得て 再興されました。 このとき 曹洞宗 に改宗され、 彦根市河原にある 大雲寺 の末寺に。 明暦2年(1656年)、 伊藤五郎助が没したことを悼み、 五郎助の 諡 "青岸宗天"  に因んで 青岸寺と改めたときに、 山号も吸湖山へと改めたそうです。 湖東に点在する 近江七福神 の 一つでもあり 福禄寿 がお出迎え。 築山林泉式枯山水 の庭園は、 1934年12月に国指定名勝に 指定されました。 1000m以上にも及ぶ広い庭園一面に、 多数の石が豪華に配置されています。 右手奥の高所に 三尊石 を兼ねた 二段構成の枯滝石組を組み上げ、 滝組から水がほとばしり、 中央の池に流れ込み、 大海に変わっていく様子が、 石組と苔により表現されています。 海には亀の上に鶴が乗った様を 石組で表す 蓬莱島 、 切石の反り橋 が架けられています。 青岸寺の 寄せ灯篭 、 竿は 織部灯篭 、字形はなく像のみ、 中台は灯篭の笠を逆にして 使用した六角形、 各々のところに小穴があり、 もとは風鈴のようなものが 釣り下げられていたと思われる。 六角の火袋に地蔵尊 が浮き彫り、 笠は蓮華寺風ともされるが、 抽木形の折衷とも…。 作庭される際に、 持ち運ばれて置かれたようだが、 どこから持ち運ばれたのか?。 蹲もさまざま 1904年(明治37)に書院と 渡り廊下が建てられたときに、 庭園の地割が改変され、 庭園上部の枯山水庭園は、 書院のために造られたものとか。 1904年(明治37)に永平寺 ...

夏詣2025 稲毛神社~京急 川崎駅

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川崎という地名で一番目に 思いつくのが" 川崎球場 "ですが、 ネットをみてみてみると その足跡を辿ることは、 すでに隔世の感があるようで、 ということで川崎にある 稲毛神社 へ。 JR川崎駅 との乗り換えは 10分以上かかるとか、 最短ルートだと6分って案内してる ネット記事もありましたが、 乗換駅としては遠いということ。 稲毛神社 の社伝によれば、 東国に争乱の絶えなかった頃、 武神である 武甕槌神 をまつり、 天皇軍の戦勝を祈る社として 建てられたとあります。 武甕槌宮 と称していましたが、 平安時代末期に 山王権現 が勧請され、 以後 河崎山王社、堀之内山王権現 などとよばれていました。 足利時代には 新田家と関係 が 深かったことにより、 社領が削られますが、 徳川家康の江戸入府にあたり、 天海僧正 の巡見参拝があり、 随神門などの寄進を受けたとか。 天保年間『 江戸名所図会 』より 川崎宿周辺の鎮守として 広く崇敬があり、 例大祭「 河崎山王まつ り」は、 その盛況から" 東の祇園 "として 街道名物であったそうです。 江戸中期の旧御社殿はの宝永年間に 川崎宿本陣 当主の世話により造営、 ただ1945年の空襲で灰塵に 帰してしまいました。 現社殿は1963年築、 鉄筋コンクリート神明造り です。 御祭神である 武甕槌神 (たけみかつちのかみ)は、 国譲りの交渉のため、 高天原より地上に降られ、 その大任を果たされた武勇の神。 その折、随行されたのが 経津主神 、 菊理媛神 、伊弉諾神、伊弉冉神 とともに配神されています。 菊理媛神 (くくりひめのかみ)は、 イザナギとイザナミの夫婦神が、 仲違いをされた折、 仲直りをさせたた神だとか。 本殿前の狛犬は平成の御大典に 作成された " 天地睨みの狛犬 "。 阿形は上半身についての 願い事、 下半身についての願い事は、 吽形の狛犬を撫でるとよいとか。 せんとくん の 籔内佐斗司 の作。 安藤広重『武相名所旅絵日記』などに 描かれた「 山王様の大銀杏 」は、 戦前は神奈川県指定の 天然記念物だったそうですが、 1945年の戦火で大きく損傷… 生命力の強さもあり、 “ 平和のシンボル ”としても 仰がれるようになっています。 『 禺老忠政遊覧記 』...