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竹生島に渡る~宝厳寺唐門から観音堂・舟廊下へ

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宝厳寺唐門 は背後に観音堂が 接続されて玄関となっています。 一間一戸向唐門で檜皮葺、 組物は出組、軒は一軒繁垂木… " 一間一戸向唐門" とは、 中央が一間で両側が一戸の構造、 正面に向唐破風がつく門のこと。 " 出組 "は壁から外側に直角に 突き出した1つの肘木と斗の 組み合わせをいいます。 " 一軒繁垂木 "とは、 間隔を詰めて並べた垂木の 一段配置を指します。 秀吉を祀る豊国廟の社僧の日記 『 舜旧記 」によると、 慶長7年(1602)6月11日の条に、 「 今日ヨリ豊国極楽門、  内府ヨり竹生島へ依寄進、壊始、  新神門、大坂ヨリ被仰了 」。 極楽門は秀吉築城の大坂城、 極楽橋であったと推定されています。 桃山文化の装飾彫刻 は、 6年かけて修理保存事業が 2020年春に終了、 美しい姿になりました。 正面虹梁 (こうりょう)、 剥落が進行しているときのもの、 牡丹をはめ込んだ大型の蟇股、 尾長島 を両脇に配す。 鳳凰に 鸞 (らん)と呼ぶ場合もあるが、 尾長鳥の 錦鶏と銀鶏 されるとか… 錦鶏は王者の装飾に用いられ、 秀吉に関わる建築に相応しい。 豊国神社 唐門 は 鶴で桐 、 秀吉といえば桐がシンボルなので、 極楽門だから極楽に誘うので、 牡丹に尾長鳥 としたのかも… 大阪城天守閣 蔵の《 大坂城図屏風 》」、 唐破風造・檜皮葺で 二階に望楼をのせた廊下橋という 特殊な形式で描かれています。 相国寺鹿苑院の歴代院主の日記 『 鹿苑日録 』に極楽橋に 望楼があったことが記されています。 2006年にオーストリアの エッゲンベルグ城で発見の 《 豊臣期大坂図屛風 》。 渡り口の破風下には彫刻、 側面の壁には極彩色の 花卉の彫刻がみえる。 彩色された 牡丹唐草 の彫刻 唐門にはいったとこにある蟇股、 松との組み合わせで鷹 の彫刻、 右側は白鷹なのでしょうね。 蟇股には松でよく見ると小鳥の姿、 両脇の彫刻から 鷹の子 と思われます。 唐門の内部天井は、 曲線形の 茨垂木 (いばらたるき)の 化粧屋根裏となっており、 菊文様の飾金具を取り付け、 花菱をいれた 七宝繋文様 が 描かれています。 賓頭盧 さんがお出迎え こちら観音堂の折上格天井、 天井板には菊・桐・牡丹などが 極彩色で描かれていて、 格縁は...

竹生島に渡る~神と仏の住まう島

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「 竹生島縁起 」によると、 奈良時代の僧 行基 の四天王像を 安置するため小堂を構えたのを はじまりとしています。 鎌倉後期以降に描かれた 《 菅浦与大浦下荘堺絵図 》には、 北を上にして描かれ、 下方に菅浦の領家である " 竹生島 "が描かれています。 都久夫郷麻神社 本殿にあたる弁天堂・ 拝殿・舞台と両側の楽屋(経所)、 懸造りの観音堂・仁王門・三重塔、 それらをつなぐ太鼓橋など 詳細に描かれています。 《 竹生島祭礼図 》東京国立博物館 室町時代後期の 弁才天の祭礼 " 蓮華会 "を描いた図、 永禄元年(1558)に 大火に見舞われたとされるので、 その直後の状況を伝えています。 竹生島港にあったこのイラスト、 島をシンプルに表したもの。 宝厳寺 と 都久夫須麻神社 … 明治の神仏分離 まで一体のもの、 大津県庁の命により、 1871年(明治4)に本尊の弁才天は、 妙覚院客殿に移され、 弁天堂は都久夫須麻神社本殿に。 宝厳寺弁才天堂 の再建は 1942年(昭和17)になってから、 ながらく再建されなかったのは、 神仏分離のとき当時の大津県との 対立が関係していました。 1871年に県は縁起や『延喜式』の "都久夫須麻神社"の記載を根拠に、 弁財天社を都久夫須麻神社へ改称、 宝厳寺の廃寺を命令 した。 宝厳寺は弁才天社仏堂としての存続、 都久夫須麻神社の新設を嘆願したが 大津県の強硬姿勢は変らず… やむなく宝厳寺は、 弁才天像を観音に遷座、 本堂を都久夫須麻神社本殿に … 一応の妥結が図られたが、 蓮華会の執行権もめぐって、 宝厳寺と神社は対立 したそうです。 今でこそ" 竹生島案内図 "では、 同尺で描かれていますが、 本堂が復古調で再建され、 大弁才天像は本尊として遷座し、 本来の姿に復帰するまでは、 相当の時が費やされたのでした。 宝厳寺 三重塔 の再建は2000年のこと、 絵図などにもその存在が 中世から確認できますが、 江戸時代初期には廃絶したそうです。 設計に当たっては、 中世以来 竹生島の宮大工 を務めた 阿部家に残されていた 設計図を参考にし、 現代の宮大工が6年の歳月を かけて建立されたものです。 こちら" 雨宝堂 " 神仏習合の両部神道におけ...

竹生島に渡る〜弁財天のお姿と琵琶湖

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琵琶湖 の北に厳かに浮かぶ 竹生島 へ いってきました。 長浜港からおよそ35分の船旅 (神を) 斎く(いつく)島 に由来し、 " いつくしま "が" つくぶしま "と変じ 竹生島 になったと言われています。 島全体は一年中、 常緑樹で覆われているのが 当たり前の姿だったのですが… 1970年代の植生調査資料によると、 暖帯の タブノキ や スダジイ が繁茂、 ただ2008年ごろには カワウの サギのコロニーへの侵入 が 激しくなり、あちこちの斜面が 丸裸状態となってしまっていたとか。 カワウの捕獲作戦で植生の繁茂が復活、 島全体が緑に戻されたそうです。 「 琵琶湖周航の歌 」の歌碑がお出迎え、 こちらは4番 「 瑠璃の花園 珊瑚の宮  古い伝えの 竹生島   仏の御手に いだかれて  ねむれ乙女子 やすらけく 」 とあります。 京都大学 の前身 第3高等学校 に 伝わる漕艇行事であった琵琶湖周航、 1918年(大正7)に作られ、 学生から広く全国民の愛唱。 加藤登紀子 さんをはじめ、 多くの歌手に歌い継がれた学生歌。 弁才天 と竹生島の 浅井姫命 が 習合の竹生島信仰、 『 竹生島縁起 』によると、 開基は奈良時代の 行 基、 平安時代中期には天台学の 修練の場となり、 10世紀中期には天台寺院である 比叡山の末寺 としての地位が確立。 西国三十三所観音巡礼 の 一つとしても信仰を集めています。 竹生島の弁財天は唯一、 ” 大 ”の字をつけ 大弁財天 。 《 木造 弁才天坐像 》  宝厳寺蔵  長浜市指定文化財 室町時代 頭上に 翁面白蛇身の宇賀神 、 前面に 鳥居 を配した 宝冠を載せる八臂の姿。 弁才天はインドの仏教の 水神" サラスヴァティー "。 像は銘記によれば、 室町期 弘治3年(1557)、 江州浅井郡河道村の 惣兵衛が奉納したもの。 中世における湖北の信仰 を 伝えています。 《 弁才天像 》  南北朝時代 絹本着色 竹生島に伝来する3幅の 弁才天像のうち一つ。 八臂の手に宝剣や宝珠、 輪宝などを持ち台に坐す姿、 その下に稲穂の上に とぐろを巻く宇賀神を配す 。 眷属である十五童子に 囲まれています。 《 弁財天像 》宝蔵寺蔵 琵琶と撥を持つ姿 二臂弁才天 、 最もよく知られた弁才天。 な...