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虎次郎の収集癖 ピンバッジ(日ハム編)

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12球団で最も熱い ピンバッチ コレクターが いるのは北海道だという。 ファンクラブに入会してると、 来場プレゼントとともに 「ガチャガチャ」でも手に入る。 びっくりしたのはピンバッチの交換が、 スタジアム内で行なわれていること。 いわば球団公認のトレード会場を、 サポートしてるってこと。 トレードや外国人選手の 途中退団なんかのものは、 幻の超プレミアモノになってしまうらしい。 レプリカユニホームは叩き売りされるのに、 なぜかピンバッジは即販売中止になる。 今年の場合は4月に横浜にトレードになった、 背番号27の江尻慎太郎 のは、 なんとオークション高値で 56,000円にもなったとか。 1個200円の ピンバッジがなんと280倍だ。 レアの江尻バッジ  ヤフオクより 「ビジター応援デー」 モノなんかも、 遠征費用がかかるから かなりの投資を要する。 「函館」 とかで配られたのはかなりのレア。 札幌遠征初日は 「交流戦」モノ (・ω・)v それとチケットを購入ポイントとの 交換で 「イニシャルバッジ」 も。 「入会バッジ」 は初年度なので「1」。 ところで「ピンバッジ」というのは 日本独自の呼び方のようで、 「ピンズ(PINS)」というのが 国際標準なんだそうである 。 ちなみに 「キーホルダー」 は、 完全な和製英語で「Key Ring」が英語。 こちらは梨田監督の ヘルメット・キーホルダーもFC限定。 ドームでFC限定でやった ガチャガチャでゲットしたのは、 選手名のピンバッジたち。 このなかにレアものがあるのかは不明だが。

虎次郎の収集癖 自分土産「記念メダル」

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タワーやお城など いわゆるお上りさん的なスポットには、 「記 念メダル」ってのがありますね。 サッポロの旅 でゲットしたメダルたち。 「 クラーク博士 」「 JRタワー 」「 支笏湖 」 刻印機とセットになっていて、 自分の名前を刻印すると オンリーワンの 自分土産ができるという代物。 最近は観光スポットに行ったら ひたすら メダル をあさっています(笑) 「スタンプメダル」 というのが 「記念メダル」の正式な名前で、 国内で販売されている 「記念メダル」のほとんどは、 茶平工業 株式会社 ってとこのもの。 この会社はなんと 大阪市住吉区山之内にあるそうです。 虎次郎の職場のほど近いところにあります。 記念メダルのコレクターはかなりいるそうで、 なかには一念発起して オリジナルメダル を 作った人もいるとか。 「ペナント」 とか 「提灯」 のような違って、 金属でできているから変色も少ないし、 そう 「 通行手形 」 にくらべると保存も楽。 なんで今まで蒐集癖が起きなかったのか不思議。 でも「記念」とつくこの手のものは 価値のアップを目指すものではないので、 ほどほどにせねばなりません。 実はこの「記念メダル」には、 さまざまなフシギがあって。。 またゆるりとシリーズ化させようかとも 企んでおりますので覚悟召され?   

サッポロの旅 ジェラる??

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イタリアの首都ローマって、 北海道でいうと函館の位置にあるそうです。 どちらも「北緯41度」。 道内ではちょっと有名な 函館発祥 の 「MILKISSIMO」 ってお店が、 千歳空港 のなかに出店していた。 実はこの店内にあるマシンでジェラートは すべて作ってるらしい。 函館近郊で生み出される、上質な牛乳を使い、 地元で育まれた果物や野菜との組み合わせ。 びっくりする素材がジェラってた (笑) そういえば。。。 札幌ドームでもジェラートを食べた。 北海道の砂川市で創業された道内では有名な 「本物のお菓子作り」の 「株式会社ホリ」 との コラボレーションで登場していた メット・イン・ジェラート。 タイガース戦は「B☆B」のヘル。。 これからは月ごとに色が変わって、 カラーヘルが限定で登場する予定だとか。 虎次郎がチョイスしてもらったのは、 「 余市産ぶどう」と「 余市産洋なし 」 どちらもジェラートらしい味やったなぁ〜〜。 その他にご当地フレーバーの 「 夕張メロン」 「 美唄産ハスカップ」ってのもあった。 アイスつながりでいえば、 「雪印パーラー」 にも行ったよ。 まあ甘いものは別腹だったので・・・ 永らく続けていた「サッポロの旅」ブログも これでお終いです。   

サッポロの旅 Boys be ambitious !

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北大にある クラーク 像。 遠くを指さすあれ を期待して来ると 「がっかり」することこの上ない。 あまり大きくないので見逃すかも知れない。 いわゆる 札幌三大がっかり名所 のひとつ。 あと二つは 「時計台」 と 「ポプラ並木」 。。 でもクラーク像にはホンモノがあるからね。 冬場なんかはここで済ましてしまうと、 かなりテンションが下がりそうだ。 おなじみの 「Boys be ambitious ! 」 には続きがあり、全文はこんな感じ。 “ Boys be ambitious ! Be ambitious not for money or selfish aggrandizement , not for that evanescent thing which men call fame . Be anbitious for the attainment of all that a man ought to be . ” 「少年よ、大志を抱け。  しかし、金を求める大志であってはならない。  利己心を求める大志であってはならない。  名声という、  つかの間のものを求める大志であってはならない。  人間としてあるべき すべてのものを   求める大志を抱きたまえ。」    このように訳すことが多いようです。 「大志と言われても現実離れしていて、  近頃の若者の心に響かないのでは?」 と、      お嘆きの向きもあるようだが。 全文をしっかりと読むとやはりいいメッセージ。 2004年に北大に立てられた 「北海道大学予科記念碑 」にも 「大志を抱いて」とありやした。 こちらは 「古河記念講堂」 。 フランス・ルネサンス風の緑色の マンサード 屋根 と 両翼の ドーマー窓 が華麗に配置されている。 マンサード 屋根 とは「 腰折れ屋根 」とも言われる。 切妻屋根形状に勾配を更に急にした屋根のこと。 ドーマー窓 は、 屋根上に設けられたさらに小さな屋根をつけた窓のこと。 古河といえば、 当時は足尾銅山を経営していた財閥。 鉱毒事件によって社会から 大きな非難を浴びていた。 その非難を和らげるため、 当時内務大臣であった 原 敬 が 古河財閥の顧問であった関係で、 政府に帝国大学創設費として 寄付された一部が北大の前身である 東北帝国大学農科大学に...

サッポロの旅 ポプラ並木

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北大のポプラ並木 大学の構内にある並木道。 前身の旧札幌農学校の農場内に 実習用に植えられたのが始まりで、 樹齢約100年にもなるそうです。 ポプラは、ヤナギ科ヤマナラシ属の 総称。 雌雄異株で春に花を咲かせるそうです。 実は1959年に台風で 5本のポプラが倒れるなどして 無惨な姿になったことがあるそうです。 札幌市立桑園小学校5年生の 女子児童 が北海道知事にあてた手紙に 「私たちのポプラがかわいそうです。  植え直してください。」 とあったそうです。 残念ながら2004年の台風18号でも 半数近くが倒壊してしまいました。 永らく「立入禁止」になっていたようですが、 近年 再整備され サッポロの風景 は健在でした。 ウッドチップが敷かれ散策路のなかには、 クロユリの群生地が復活 していました。 昔は北大のキャンパスにはたくさん 咲いていた花だったようで、 北大美術部の名は 「 黒百合会 」 と 名付けられています。 時計台にもクロユリが花を 咲かせていました。 「恋の歌のクロユリが咲いてますよ 」って なんのことがわかりませんでしたが、 1954年に 織井茂子 さんが 歌った 「黒百合の歌」 のことだと、 あとでググったらわかりました。 ポプラ並木の手前にあったのが、 ” I wish to be a bridge across the Pacific ” 「願わくば われ 太平洋の橋とならん」 という言葉を残した 新渡戸稲造 像。 戦前の日本を代表する国際人・教育者。 樋口一葉に変わるまでは 「五千円紙幣」の肖像。 1881年に北海道大学の前身である 札幌農学校を卒業。 開拓使御用掛に席をおき 黎明期の北海道開拓に尽力しました。 その後、あらためて東京大学に入学。 アメリカ合衆国やドイツで見識を広めた国際人。 帰国すると母校の札幌農学校の教授として赴任。 1891年から7年間、 当時閉校の危機あった札幌農学校の 立て直しと学制改革に取り組み、 後の北海道大学の基礎を築かれました。   

サッポロの旅 サッポロの赤煉瓦

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サッポロの旅。 スキーでガンガン行ってた時は、 ワンナイトプラスでまさにサッポロは酒宴の地。 ホント観光スポットに 立ち寄ったことがを ありませんでした。 虎次郎の大好きなレンガ造りの建物たち、 ほんとはもっと駆け巡りたかったのですが、 でもデーゲーム観戦だと、 やっぱり昼の時間が限られたのですが。。。 美味しいとこをスポット的に駆け巡りました。 「赤れんが」 の愛称で親しまれている 「北海道庁旧本庁舎」 は、 日本人が設計した本格的な洋風建築の パイオニア的な存在です。 アメリカ風 ネオ・バロック洋式 で、 レンガの総数は約250万個。 天然スレート葺きの大きな屋根、 中央にそびえる 八角形の塔は、 建設当初はあったものは 明治29年に 撤去されていたそうです。 北海道開拓100年の 1968年に ようやく創建当時の 塔が復元されました。 ちなみに ネオ・バロック洋式 とは、 バロック洋式(ドームや柱) と ルネッサンス洋式(規則正しく並ぶ窓) の 特長を併せ持つ建築様式のことだそうです。 シンプルななかにもテラスなどの金具には、 装飾的な要素が見られました。 ここにも北海道のシンボルの 「星」がありました。 北海道では、1869年から1982年までの 13年間を「開拓使時代」と呼ばれています。 1869年は明治2年にあたり 「北海道」と「開拓使」が誕生した年。 この年5月、函館の五稜郭戦争が終結し、 7月には、長い間 「蝦夷地」 と呼ばれていた この北の島が、 「北海道」 と改称され、 翌8月、開拓使が設置されたのがこの 「サッポロの赤煉瓦」 です。

サッポロの旅 時計大臣とテレビ父さん

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ライラックの彩り が加わった 「札幌時計台」 土佐の「はりまや橋」と並んで、 がっかり名所って呼ばれるけど。 北海道の時を支えた存在は今でも 道民にも愛されています。 近頃はなんでも 「ゆるキャラ」に仕立てあげられる。 テレビ父さんの大先輩であり、 よき友人っていう設定。 イラストレーター「亀」が生み出された。 テレビ父さん のほうが先に登場していたが、 最近出てきたのが 「時計大臣」 。 こっちの方が明治・大正・昭和を生き抜いた。 アナログとデジタルでどちらも時を刻んでいます。 時計台の正式名称は「旧札幌農学校演武場」。 1878年に札幌農学校の演武場として建設。 農学校生徒の兵式訓練や心身を鍛える 体育の授業に使う目的で建設されたので 「演武場」 。 正面にある文字は岩倉具視の揮毫です。 当時アメリカ中・西部で流行した 「バルーンフレーム」 と呼ばれる 木造建築様式をモデルとしているそうです。 動力におもりを利用した機械式塔時計台です。 実は時計台にはもうひとつキャラがあって、 その名も 「とっけ」 。 札幌時計台の中に住んでいる生き物って設定。 夢は「将来は広い丘に引っ越したい。」 。 ビルに囲まれた時計台とともにテレビ塔も、 北の大都会の一風景になっていました。

サッポロの旅 モエレ沼公園

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彫刻家 イサム・ノグチ が最晩年に手がけた 「モエレ沼公園」 を満喫してきた。 彼のマスタープランの策定が1988年のこと。 2005年7月のオープンなので、 当然のことながら彼は完成を見ていない。 でも最終打ち合わせで、 モエレ沼公園と 大通公園のマントラの模型を見せながら、 「これで私がいなくなってもできますよ」と、 ノグ チが笑いながら言っていたそうだ。 自分の存命中に完成できない計画で あることは 覚悟のことだったのであろう。 彼のサッポロへの訪問は芸術文化的事業に 力を入れていた札幌市からの依頼によるもの。 現地を訪問したが市が本命視していたのは 「札幌芸術の森」だったようだが、 当時「ゴミ捨て場」として姿を さらしていたこの地に あえて 関心を示したのだそうだ。  「ミュージックシェル」     前面が直径約15mのステージ。     パフォーマンスの舞台となる。     建物の内部には出演者のための     控室とトイレが組み込まれている。 「モエレ」って言葉は 「ゆった り流れる」を意味するアイヌ語。 沼は 同市を流れる豊平川の河跡湖 なんだそうだ。 「全体をひとつの彫刻と  みなした公園。  子供が作品と遊べる場所に」 これがノグチの デザインコンセプト。 カラフルな色合いの遊具が並ぶ 「サクラの森」 は、 エンピツのような LOFTの宣伝のような、 印象深いフォルムが満載。 ただスベリ台はあまりにもデザインがシャープなのか、 立ち入り禁止の表示が目立っていたのが少し残念。 「スライドマウンテン」 も一箇所しか滑れない。 実はこれによく似たのが サッポロの大通り公園にもある 「ブラック・スライド・マントラ」 。 黒御影石でできているそうです。 実物は時間の関係で残念ながら見れなかった。 この滑り台に黒花崗岩を選んだのは、 雪の白に映えるようにとの思いからだとか。 実は 大阪にもイサム・ノグチの作品 がある。 万博記念公園に残る噴水の一部 「月の世界」 は彼の作品だ。 モエレ沼公園に戻る。。。。 とにかく広いのでレンタサイクルでも かなりたっぷりと時間がかかる。 高さ30メートルの 「プレイマウンテン」 に続く石畳と ピラミッドを連想させる南側の石組みは すべて瀬戸内から運ばれた御影石。 2300トンぐらいを運び込んだのだという。 ノ...