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尾張国一宮をあるく⑥ 玉ノ井賀茂神社その2

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『 尾張名所図会 』にも 玉の井の里 加茂社 とあり… ここにも尾張地域によく 見られる 蕃塀 がありました。 3間巾の 木造銅板葺き 連子窓型蕃塀です。 拝殿の正面に 位置していますが、 参拝者を遮断する位置には ないのが特徴です。 参拝者の視線を 遮断しない蕃塀の例は、 伊勢神宮 の内宮・外宮、 熱田神宮 などがそうで… 多くの蕃塀は、基本的に 拝殿の正面に位置します。 この賀茂神社が、 何か特別なポジションに あったのかも知れません。 もうひとつの特徴が、 この建物でして… 旧神門 を保護している覆殿。 社伝によると… 天明年間(1781~1788)に 覆屋を作り保存するように 、 現在地に移したと伝わります。 冒頭の『尾張名所図会』には、 「古桟門、こは殊に古代の物にて、 左甚五郎作 とも 武田番匠 の作とも いひつたえたり」とありますが、 誰の作とは分かっていません。 木鼻 は非常に珍しい形状で、 同じようなものは、 厳島神社 に一例のみとか。 柱の根元が痛むたびに 切っていたら、 今のように低くなって しまったそうです。 何かの干場になってた(T_T) 境内には 玉乃井稲荷社 橋掛かり… 朱塗りの鳥居が立ち並び、 信仰の篤さを感じさせます。 身変り楠 次の電車の時間までに 玉ノ井駅にもどりました。

尾張国一宮をあるく⑤ 玉ノ井賀茂神社その1

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尾張猿田彦神社 の 最寄の奥町駅から 奥宮千勝神社 、 若宮神明社 を辿ると、 名鉄玉ノ井線 の終点へ、 玉ノ井賀茂神社 まで 足を伸ばしました。 車道を挟み真ん中に歩道、 珍しいシチュエーションを テクテクと… かなり距離がありました(T_T) 138 の数字を付けた奴は、 「 いちみん 」という 一宮市のマスコットキャラ。 市内にたつ ツインアーチ138 を モチーフにしているとか。 いちみん のおおきさは? 138イチミン? イチミンは、 この 妖精の大きさ の単位?? 名鉄玉ノ井線は正確には、 弥富駅から玉ノ井駅間の 尾西(びさい)線 の北部分。 1944年まではさらに北進、 木曽川港駅 まであったそうです 前置きが長くなりました… 「賀茂神社」の話へ。 6世紀半ばの 創建と伝わる古社で、 境内の「 玉ノ井の霊泉 」が 地名の由来です。 こちらが玉ノ井の霊泉。 光明皇后 の目の病気を 平癒させたと伝わります。 『霊泉玉井由緒記』によると、 天平3年(731) 聖武天 皇に 命ぜられた 行基 が、 都に帰ったのだとか… 平安時代の記録の 『延喜式神名帳』には、 穴太部神社 とありました。 平安時代後期になって、 賀茂神社の祭神が祀られ、 社号も賀茂神社と 改められたとこと。 神馬の神紋には、 葵 がみられます。 御祭神は 玉依姫命 と 賀茂別雷命 。 玉依姫命は賀茂別雷命の 母神にあたります。 玉ノ井が天平期に 辿るということ… 享保2年(1717)の発掘で、 「 天平三年三月五日 」の 墨書の古井桁が発見、 歴代領主から庇護され、 尾張藩主徳川家 から 社領の寄進された所以です。 そのことが 記されているのが、 『 尾張名所図会 』。 京都と鎌倉を結ぶ 鎌倉街道 に沿いにあたり、 文人墨客の題材にもなって、 広く知られた存在だったとか。 鎌倉初期の歌人 飛鳥井雅経 の歌碑。 「 思ひいつや みたらし川に  せしみそぎ  忘れぬ袖の 玉の井の水 」 飛鳥井雅経は 歌鞠二道 で 知られる飛鳥井家の祖、 『 新古今集 』の撰者の一人。 歌鞠二道とは、 蹴鞠、和歌両道の意。 小倉百人一首...

尾張国一宮をあるく④ 若宮神明社

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一宮市奥町字堤下に鎮座する 「 若宮神明社 」。 尾張猿田彦神社の奥宮 がある 堤から見下ろすと… しっかりとした神域を 伺うことができました。 お参りしたあと、 参道を辿ると、 大きな鳥居がありました。 由緒によると… 創建は文禄年間、 関ヶ原合戦 前のころ。 後陽成天皇 の時代とか。 木曽川堤の氾濫があり、 伊勢神宮大麻 を奉斎して、 万度の祓いに治めると… 川瀬が変じて田畑に なったと伝わります。 社殿の前にあるのは「 蕃塀 」。 正殿を直視できないように、 不浄侵入を防ぐために… と言われるが定かでありません。 蕃塀を 伊勢神宮 のものを 指すとされていますが、 尾張地域には よく見られるそうです。 記録に残る尾張地域の 蕃塀は 眞清田神社 のもの。 『 尾張名所図会 』には、 連子窓型蕃塀がみられます。 御祭神は、 天照大神 と 素戔嗚命 。 こちらが本殿。 堤から見えていた祠 萬度治水神社 神明社 とありました。 御大典記念 とあるから… 昭和天皇即位の折。 太平洋戦争末期、一宮は 大空襲に遭いました。 川崎航空機工場や 特殊軽合金工場など、 軍需工場 があったことが その理由です。 ただ…この辺りは、 数十発の大型焼夷弾の 投下にも不発に。 神社に落ちたのも 不発弾だったそうです。 大正元年に大竜巻 が起きた ことがあったそうです。 その時もこの地域だけは、 難を避けたと伝わります。 「 白金龍王 」は、 皇大神宮荒御魂 を 祀っています。 創建は1950年のことです。 大竜巻から時を要したのは、 敗戦の余波により、 進駐軍による抑圧のため。 祭文殿と拝殿の中間あたりに、 白蛇が現れたのだそうでして、 丁度 例祭の当日だったとか… 額装された由緒書が 伝えていました。 気になる神域がひとつ… かつてはここに猿田彦?? というのも 伊勢神宮へのご用材の筏、 綱の締め直しのため、 立ち寄って宿としたのは、 氏神である若宮神明社 だったと伝わります。 いろいろ調べてみると… 尾張藩領である一宮には、 伊勢領があったそうです。 堤防の安全祈願のために 伊勢神宮に奉納された田畑。 一宮市内には 「 今伊勢 」という地名もあり、 結びつきがあったこと、 改めて辿る機会があれば…