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猿田彦のミチを開くvol.19 京都岩倉・石座神社

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京都の北東・ 岩倉 という地、 「 石座神社 」と書いて、 いわくらじんじゃ という 神社があります。 岩倉川 という川を上ると、 杜が現れます。 社号は「 山住神社 」… 本殿がありません… ” 山住 ” は山の神を意味する 「 山祇 (やまつみ)」に由来し、 この拝殿は 石座と神を拝む場 、 神社の古い形なのです。 今は 石座神社の御旅所 ですが、 かつてはここが 石座の神 が 座すところだったそうです。 石座は赤道付近の海底で 1億年前以上に堆積した プランクトンでできた チャート石 なのだそうです。 海洋プレートの地殻変動 などで、 地上に現れたものだとか… かつては祠につながる石段が、 あったかも知れないのですが… かなり崩れててきているようで、 こんな張り紙がありました。 971年に上流に 大雲寺 が創建、 その後今の石座神社に 遷座されたとだというが… 明治時代に入るまでは、 巨石がある神社の方を “ 石座神社 ”と呼び、 鎮守社は“ 八所明神 ”と 呼ばれていたそうです。 石段を上がると 神楽殿 。 さらに奥入るといくつか、 社殿がならんでいます。 東社は八柱を祀る「 八所明神 」、 石座、新羅、八幡、山王、 春日、住吉、松尾、賀茂の神々。 八所明神とは神社に よくある祀られる形で、 八所の神々の構成は それぞれ異なっていて、 ここでは "石座"を主神 と しているのでしょう。 西社は八所明神に 四柱を加えた「 十二所明神 」。 伊勢、平野、貴船、稲荷が 相殿されています。 実は…石座神社では、 鞍馬の火祭り にも負けない、 松明行事が執り行われていて、 例祭のには 旧岩倉村の六座 が、 山住神社 から 石座神社 へと、 神輿が繰り出すのだそうです。 西社の右に座すのが「 一言神社 」、 一言主大神を祀ります。 かつては北北東の位置に あったそうですが、 1878年にこの地に遷座。 岩倉といえば 岩倉具視 … かつて祀られていた場所に しばしばお参りしていたとか。 岩倉具視は一言神社のため、 2石の田地を求めて、 維持に努めたそうです。 境内社のなかで別に、 鳥居と石段があるのは、 そんな訳があるのです。 で… サルタヒコ さま、 東社 八所明神に向かって左、 伊弉冉命をお祀りする 愛宕神社 とともに。 平安京には魔界都市

日本人の嗜好をさぐる⑫ ふぐ

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《狂斎百図》より  小坊主に天狗八人  河鍋暁斎 フグのちり鍋は" てっちり "、 フグは当たったら命がない、 というところから "鉄砲"。 そこに命名の由来があります。 暁斎の絵には、 「ふぐハ喰いたし   命はおしい」 と… 《蝦蟇河豚》 伊藤若冲 ガマガエルのお蔭で、 すっかり毒も吐いたの か… 1643年刊の『 料理物語 』の ふぐ汁の作り方…が 「 皮をはぎ わたをすて  かしらにある  かくしぎもをよくとりて   血のけなきほど よく洗ひ 」 《龍の都三番續》柳川重信 フグを頭にのせた美女と、 クラゲ?いや蛸?? さかなクン ? いや…さかなチャンか。 『箱入娘面屋人魚』 山東京伝 頭に被り物の魚はここにも、 竜宮城の魚たちを 擬人化 したものなのです。。 《芳流閣・ふぐ・仙人》  国芳・広重・三代豊国 張交絵 と呼ばれるもので、 これは異なる絵師の作品を 配したパターンです。 剣に乗って浪を走る仙人… 鬼瓦の陰に激闘のあとの姿… なぜここに広重の 「 河豚と根深 」が 合わされたのか謎です。 《五十三次の内 品川》  三代 歌川豊国  1850年 中央に李下斎紀文実… 由良之助 とあります。 『 忠臣蔵五十三紀 』という 芝居の一場面なのです。 俎で河豚をさばくのは、 肴屋吉五郎。 なぜ品川宿でフグ??? 江戸期もフグの名産地は、 長門国の下関 でした… 江戸初期の『 本朝食鑑 』には、 「1尺以上もある大きいものが  芝浜・品川でとれて  品川ふぐというが、  味がよくないので食べない」。 トラフグは超高級品でしたが、 死ぬのは怖い( TДT) 『 落葉集 』より 武具之図 武具とフグと掛ける 趣向、 兜の下の石垣は御台場で ペリー来航の御固 (おかため)、 3つの家紋がみえ、 越藩 松平家、長州藩 毛利家、 そして熊本藩 細川家。 「 すえ台に武具の  焼もの 手料理を  食わずに帰る 御代の恵を 」 《龍宮遊さかなげいづくし》  歌川国芳 ふてぶてしい姿で 描かれることが多いようで、 江戸期は不気味な存在でした。 「飲み仲間 一人死んだで  酔がさめ」 「片棒をかつぐ ゆふべの  ふぐ仲間」 こんな川柳が残ります。 《魚の心》歌川国芳 「 魚心あれば水心 」 魚に水を思う心があれば、 水もその気持ちを

日本人の嗜好をさぐる⑪ サメとフカ

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《魚づくし 日本橋の朝景色》  三代 歌川豊国 江戸 日本橋の近くには 魚市場がありました。 天秤棒を担ぐ女性? 担ぎ手は屈強な男たちは、 あくまで持ち手なのです。 あきらかに 鮫の姿 … 《 隠岐国産物絵図注書 》より 日本近海には約120種類の 鮫がいるそうで… 古くから鮫とも鱶とも。 『 魚の博物事典 』によると、 「サメとフカは同じもので、  呼び名が違うだけ。」 「 因幡の白兎 」のワニは、 鰐ではなく鮫のこと、 ワニはサメの古語で、 今でも山陰や北陸地方では ワニ と呼ぶのです。 《讃岐院眷属をして為朝をすくう図》  歌川国芳 国芳の描く眷属は鰐鮫、 源為朝 は 平清盛 を 討つべくとして荒波に、 そこに現れたのが、 巨大な鰐鮫… 皆は鰐鮫の背に乗り 琉球に逃れた という物語。 《本朝水滸伝 剛勇八百人一個   宮本無三四》  歌川国芳 こちらは退治される鮫。 ただ…各地には鰐鮫は、 龍宮からの 神使 であったとも。 古文書に遺る話には、 因幡の白兎も話を辿れば、 ワニを騙してまんまと 渡って来たのウサギの方 、 騙したことを白状… 「すっかり丸裸」のワケ は、 ウサギはまさに自明のこと。 ライデン国立自然史博物館 の  コレクションより 崇敬を篤めていたサメ… 不思議なことに、 干して食べる習慣 も あわせて残っているのです。 鮫の干物の食習慣は、 山陰の一部と伊勢志摩だけ、 ここに 出雲と伊勢の繋がり を 見る識者も少なくないのです。 《 隠岐国産物絵図注書 》より サメの肉は半平や蒲鉾など 練り製品の材料 となりました。 珍重されフカヒレ以外は、 魚の縁遠い場所へ… 中国地方の特に山間部では、 今もサメ肉が食されます 。 ただ鮮度が落ちると独特の アンモニア臭が発生 して、 好き嫌いが分かれるとか。 ライデン国立自然史博物館 の  コレクションより 広島の山間部では 「正月 にワニを食べないと  正月が来ない」 と… そこには一尾全体 " 捨てるところな し"との、 食用価値や薬効とともに、 海魚を食べたい という 信仰心に似た思いが あったのかも知れません。 《 人倫訓蒙図彙 》より薬種屋・ 鮫屋 鮫皮といえば" おろし金 "、 サメの歯 や椎骨は、 加工され装飾品としても 使われてきました。 縄文

大坂の伝統野菜たち⑥ 天王寺蕪

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《 日本山海名物図会 》より 天王寺干蕪 「 名物や 蕪の中の 天王寺 」 与謝蕪村の詠んだ句。 蕪が地面から浮き上がった ように成長することから、 「 天王寺浮き蕪 」とも… 天王寺蕪の種を持ち帰った 長野野沢温泉 村の 薬王山健命寺 の八代住職 昇天園端大和尚が 京都遊学 のときに、 浪速の地に立ち寄り、 天王寺蕪の種子を持ち帰り… 四天王寺の中心伽藍、 五重塔や金堂を臨む 「 野沢菜原種旅の起点 」の碑 。 碑石が立てられたのは、 野沢温村制施行の 60周年にあたる年 のこと。 北信濃 野沢温泉では… 蕪ではなく葉がメインに 野沢菜になったと… 野沢温泉村周辺では、 種子の純粋性を保つため、 油菜種などとの交配を避け、 雑種が出来ないように 努めてきたそうです。 ただ…野沢菜のルーツは、 信州に古くからあった ヨ-ロッパ型のかぶと 自然交雑した説もあるとか … 《蕪図》 雪村 すずな、かぶら菜と呼ばれ、 蕪は葉を食する のは、 古くからのことで… 今でも大根でなく蕪を 葉を落として売ることは、 あまりみかけません。 《 玄圃瑤華 》より 蕪 伊藤若冲 が描いた蕪。 拓版画 と呼ばれるもので、 玄圃 (げんぽ)とは 「崑崙山にある  仙人の住む理想郷」、 瑤華 (ようか)とは 「玉のように美しい」の意。 玉蜀黍と甲虫 瓢箪と蜂 《蕪に双鶏図》  伊藤若冲 鶏の好きだった若冲、 蕪との組み合わせの本図は、 2019年に初公開 されたもの。 最初期の彩色とみられています。 《 野菜青物尽絵合せかるた 》より 蕪には 関が原を境 に、 東西に違いがあると 言われています。 中国渡来のアジア型が西、 東日本は朝鮮半島伝来の ヨ-ロッパ型とか… まさに 天下分け目 の " かぶら・ライン "が、 関ヶ原に引かれるそうです。 『 本草図譜 』より からしだいこん 江戸時代末の植物図譜のひとつ、 幕臣の 岩崎灌園 の著作。 「下野古河の産なり  葉は ふゆだいこん の如くにて  根円くして短く   天王寺かぶ の如く  味は辛辣なり」 《紙本墨画果蔬涅槃図》  伊藤若冲 若冲の野菜の絵といえば、 「果蔬涅槃図」を 忘れてはなりませんね。 蕪はいくつか描かれていて、 天王寺蕪とも聖護院蕪とも。 京の錦の青物屋の家 に 生まれた若冲だから… 聖護院蕪 に違い