投稿

6月, 2015の投稿を表示しています

堺の街並みを往く〜白夜のウサギたち

イメージ
宿院頓宮であったウサギの集会 ??? 実は1963年(昭和38)に獣医でもあり、 動物彫刻家の 岩田千虎 (かずとら) さん指導で、 作られたアートなんだそうです。 で・・・なぜ兎なの?? 住吉大社の鎮座は 卯年卯月卯日 とされていて、 毎年5月最初の卯の日に 「 卯の葉神事 」なるものが 大社にて営まれており、 由縁があるそうです。 宿院といえば、虎次郎の大好物 うどんすき 美々卯 さんの発祥の地。 この「 白夜の兎 」群像は、 美々卯さんの寄贈だとも言われています。 宿院頓宮の境内には「 兜神社 」の旧跡碑。 神功皇后 が三韓討伐から凱旋したおりに、 ここに兜を埋めた故事に因むお社です。 神功皇后と云えばウサギさん でして、 手水舎にも兎がいたのですが、 カメラに残っていませんでした。 狛犬たちの表情に かまけていたからですかね(TдT)

堺の街並みを往く〜住吉・大鳥の御旅所・宿院頓宮

イメージ
利晶の杜にほど近く、 フェニックス通りの分離帯には 「 住吉 大鳥 両大社頓宮 」の石碑。 住吉大社の 住吉大神 さまと神功皇后、 そして 大鳥大社 の摂社として、 大鳥井瀬神社が鎮座されておられます。 現在は境内はかなり狭いのですが、 古くは東西1町半、南北1町の地で、 四方に溝をめぐらし住吉大社の御旅所。 宿院は“ 宿居 ”とも書くそうで、 「神の假にましますゆえなり」とか。 東西南北の通路には 11もの口 、 住吉の「吉」の字 に ちなんだものだと伝わっています。 荒和大祓神事が営まれる境内西側に、 「 飯匙堀 」もしくは「 飯匙池 」、 「 いひがひ 」と読みますが、 元々は池の形が 飯匙(しゃもじ) のよう、 ですから絵馬はシャモジ形なのです。 住吉の神輿 は6月30日に この 飯匙の池 にお渡りをなされ、 9月30日には 玉出島に移る ことが 恒例となっているのですが、 これがいわゆる「 陰陽の御祓 (おおはらえ) 」 をあらわしていると言われています。 彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト) が、 塩津翁 (しおつのおきな) の 助けを借り竜宮に行き、 豊玉姫 と契りを交わし、 聟 (むこ) の引き出物として 干珠・満珠 をもらった神話。 竜宮から帰って来て、 干珠は宿院の地 に埋められたとか。 そして満珠は、 住吉境内社 大海神社 に埋めたことにより、 九月の晦日に満珠を鎮魂され、 六月晦日に宿院にお越しになるのは、 干珠を鎮魂なさるためなのです。 竜宮伝説が交わる場所が ここにありました。

堺の街並みを往く〜利休と晶子との差170センチ?

イメージ
3月20日オープンの “ さかい利晶の杜 ”にも、 寄ってきましたよ!! 建物の裏手にある 「 千利休屋敷跡 」から見ると、 本当にリッパと言うしかありません。 有料ゾーンの 千利休茶の湯館 と 与謝野晶子記念館 、 そしてオープンエリアの 観光案内展示室 で構成されています。 梅の花 さんや ドライブスルー・スタバ があって、 道の駅みたいな感じなのかなぁ〜 なんて思えました。 屋敷跡に残る「 椿の井戸 」は、 椿の炭を底に沈められた ことに因むもの。 井戸屋形は利休ゆかりの 大徳寺山門 の古部材より建てられたもの。 そして… 与謝野晶子 の生家もほど近くに。 菓子商 駿河屋 の三女として、 甲斐町に生まれてから、 鉄幹さん に出会って 家を出るまで堺で過ごしました。 “利晶の杜”の与謝野晶子記念館に 原寸大復元された駿河屋の店先。 1901年(明治34)出版の「 みだれ髪 」は、 鉄幹さんへのあふれる愛と 青春のみずみずしさが今でも新鮮。 こちらは“利晶の杜”にあった文学碑。 1933年(昭和8年)に与謝野夫妻が 互いの文学的資質を誉め讃えたものです。 二人の仲睦まじく、 尊敬し合っていた姿が偲ばれます。 「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつつ  少女となりし父母の家」 の歌碑。 実は晶子が通った 堺女学校 への道は、 現在の地表から 30cm下の道 。 徳川家康 が京で信長と会見した後、 本能寺の変を聞きいわゆる伊賀越にて、 大急ぎで三河に逃れたときは 地下2m 。 ザビエル公園にある 「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅(ほうたく)」の碑 それより遡って、 サンフランシスコ・ザビエル が キリスト教の布教のため、 堺の地を踏んだときは 地下2m20cm 。 さらに 一休さん が街を闊歩したころの地表は、 地下3m のところに位置するのだそうです。 なぜそんなことが分かるかといえば、 大坂夏の陣では焼き討ちに遭い、 自治都市堺が灰燼化したときの層。 キリスト教宣教師も記録をとどめる 「 天正の大火 」の跡。 利休はこの下の地層に生きた。 第二次世界大戦末期の大空襲 で 焼け野原になったと

堺の街並みを往く〜煉瓦の地産地消②

イメージ
丹治煉瓦 の事務所として使われていた 赤レンガの秀逸な出で立ち 。 後に個人所有となって、 住居として改装されたものです。 売り物件となったあと リフォーム工事中 、 ただ中断されているようにも見え… ちょっと気になります。 窓台やアーチの上には丸みを帯びた 特製の役物煉瓦がつかわれていて、 建物自体がまさに レンガのカタログの役割 を果たしています。 透かし模様を施して積み上げられた塀。 茶褐色の煉瓦 は意図して 焼成されたものではなく、 おそらく焼き過ぎによって生じたもの。 ここでは販売に回せない不良品が、 その流用として使われいるそうなのですが、 グラデーションをもたせた組み合わせが、 独特の雰囲気を醸し出しています。 背面には 円形の飾り窓 があって、 きっと色ガラスがはめ込まれています。 円形窓の縁取りや付け柱、 軒部分には白い部分は石造りではなく、 白煉瓦 が用いられているのです。 よくみると… 現在はベニヤ板でふさがれていますが、 玄関欄間にもステンドグラス 、 なんとなくアールデコ調のような… 「 丹治煉瓦製造所 事務所 」 →永楽邸→? 建築年:1900年(明治33) 設計 :不明 構造 :煉瓦造り2階建て 所在地:大阪府堺市永代町

「シンデレラ」ガラスの靴の秘密

イメージ
好評だから上映延長のお陰で間に合った 実写版の『 シンデレラ 』・・・ 夜中の12時で魔法が解けると、 かぼちゃの馬車も、 ハツカネズミの馬も、 アヒルの御者も、 トカゲのお供も、 そしてシンデレラの服も・・・ みんな戻ってしまうのに。 なぜかガラスの靴だけは、 魔法が解けない 『 シンデレラ 』。 その答えが本作で暗示がありました。 フェアリー・ゴッドマザーが魔法を かけるシーン。 「まって。その靴しかない?」 「どうせ見せないわ」 「おめかししても靴で台無し。  早く脱いで。新しいのを出すわ。  靴の魔法は得意なの」 。。と。 靴は新たに作ったものだから、 決して魔法じかけの そう「 紛い物 」ではなかったということ。 『 シンデレラ 」物語の系譜には、 フランスの シャルル・ペロー が書いた 『 サンドリヨン 』の前が、 17世紀のイタリア詩人の バジーレ 作の 『 灰かぶり猫 』なのですが・・・ グリム童話になって、 寒さのあまりカマドの側の灰のなかに 寝ていたいので「 灰かぶり 」= シンデレラ に 呼ばれるようになったとのこと。 靴の話に戻ります。 『サンドリヨン』の「 ガラスのスリッパ 」が、 ディズニーによって「 ハイヒール 」に… そして「 ガラスの靴 」ってことに定着します。 「靴が縮んだのよ!」 それにしても合わないとなると、 シンデレラは足は、 相当に小さかったのでしょうか? 実はこのこと自体に 魔法がかけられているのです。 なぜなら、 シンデレラ以外は 決して履けてはダメなの ですから… 衣装デザインの サンディ・パウエル さんは、 ガラスの靴についてこう語っています。 「靴は、ノーサンプトンの博物展でみつけた  1890年代のオリジナル・シューズをベースにしたもの。  その靴は、ヒールが12.7cmほどある、  ありえないほど小さな靴で、とてもエレガント。  でも輝かさせるためにはクリスタルで作るしかないので、  スワロフスキーに協力を頼んだの。  できるだけ継ぎ目のない納得のいく靴のかたちを  作り出すこと自体チャレンジだった。  この靴を作るためだけの装置まで開発したのよ。」 実写版とアニメ版の

堺の街並みを往く〜煉瓦の地産地消①

イメージ
廃藩置県、明治維新になって、 堺の地は いち早く近代産業都市へと、 その役割の舵を大きく切りました。 1869年(明治2)には 工部省鉄道寮 が、 住吉橋通りに全国初の官営工場である レンガ製造所 が開業したそうです。 堺付近では 良質の粘土が採れる 上に、 港に接しているから輸送に有利 という そんな立地条件もあって、 堺の煉瓦産業は 反映したそうです。 「 昆布佃煮 藤本商店 」の看板がある、 この赤レンガの建物はもともと、 1870年に  丹治利右衛門 という人が、 大阪の民間として 煉瓦製造を、 始めだしたときに 造られたものです。 「 丹治煉瓦 」を筆頭に泉南地方に集中した、 岸和田煉瓦、堺煉瓦、大阪窯業、 貝塚煉瓦、日本煉瓦など、 当時の日本を代表する煉瓦製造所が林立 、 煙突から排出する煙で、 堺の空は 黒く覆った ほどだったとか。 しっかりと積み上げられた イギリス積み 、 時代を経ても堅固さを保っています。 屋根部分は瓦葺き、 鬼瓦には「寿」の文字が見えます。 ところで 堺でなぜ昆布 ? 江戸時代に北海道で採れた昆布は、 北前船を下関回りで瀬戸内海から堺へ、 当時 コンブロード と呼ばれていたそうです。 そして堺は昆布を削るための道具、 良い打刃物の産地でありましたし、 天下の台所である“大坂”の傍にあって、 堺の伝統産業として、 その繁栄が築かれたのです。 「 丹治煉瓦製造所 倉庫 」 →藤本商店 建築年:明治末期から大正初期 設計 :不明 構造 :煉瓦造り平屋建て 所在地:堺市永代町1丁目

堺の街並みを往く〜よくぞ残った木造郵便局

イメージ
船待神社 の近くに ペンキはげはげの元郵便局。 もと 堺湊郵便局 だったことは、 赤いポストがあるからなんとなく。 今なお旧家が立ち並ぶ 紀州街道 沿い、 1975年ごろ新局舎の完成に伴って、 郵便局舎としての役割を終えたそうです。 一時、 数学教室 だったころに 貼られた シールたちがアルミ建具の扉に、 局舎のその後の系譜を伝えています。 玄関屋根の ひさし飾り が凝りに凝っていて、 よくよくみると 下見板張り の外壁は、 ところどころに ピンクと青と白のペンキ が 残っていました。 おそらく現在は無人状態なのだと見えますが、 それでも建物の体裁を保っているのは、 元々の ガタイがしっかり していたからでしょう。 設計は 大工棟梁 野沢某  との記録があるそうで、 昭和初期のていねいなモノづくりの賜物。 「旧 堺湊郵便局」 建築年:1933(昭和8) 設計 :大工棟梁 野沢某 構造 :木造2階建 所在地:堺市堺区西湊町2-3-4