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ハマの洋館めぐり 横浜生糸検査所

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一度紹介した のだけど... 横浜の定宿からほど近いところにあるから、 早起きしてじっくり眺めてみた。 通称 キイケン で親しまれている赤レンガは、 「 横浜生糸検査所 」である。 隣接する 帝蚕倉庫 と同時期に建てられたが、 「横浜第2合同庁舎」として新庁舎とする際に、 いったん解体されたのだが、 その後創建当時に限りになく復元された。   がっしりとした車寄せには、 レンガの柱形に支えられたツクりは気品が漂う。 盾飾りは巨大な「 蚕蛾 (さんが) 」がモチーフ。 蚕蛾とは、カイコが羽化した成虫のこと。 その周りは 桑の葉と実 が添えられていて、 菊の御紋を胸に抱いている。 生糸が戦前日本の主力輸出品の 品質検査を行う建物を示すに十分の構え。 どこまでが補作なのかは不明だが、 なかなかの秀作なのである。 設計は 遠藤 於菟 (えんどう おと) 。 梁を用いない フラットスラブ構造 とか... 重要な国策産業の一大拠点の彼方には、 横浜ランドマークタワー が聳える。 「横浜生糸検査所」 →横浜第2合同庁舎 建築年:1926年(大正15) 増築:1931年(昭和6) 再建:1993年(平成5) 構造:鉄筋コンクリート造り4階建て 設計:[旧建物]遠藤於菟 ファサード保存 【横浜市認定歴史的建造物】

ハマの洋館めぐり 旧本町旭ビル

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ヨコハマの洋館めぐりの ランドマークともいえる 本町通りの 横浜開港記念館 と向き合って立つ 「 旧本町旭ビル 」。 あの不動産、建築を手がける 綜通グループ の テナントビルになっている。 ジャックの塔 に見とれていることが多く、 ついついカメラに収めていなかったのである。 現在のビルは旧ビルをファサード 保存、 1995年に建替えられたて今に至る。 両側の玄関周りにテラコッタ、 あの フランク.ロイド.ライト の影響を 受けたとされる装飾と伝わる。 1930(昭和5)年に大阪の商社「 江商 」の 横浜支店として建てられたのだそうです。 江商とは近江出身の 北川与平 が 輸入綿糸の取り扱いを目的として 横浜に創業した北川商店がルーツとか。 コンクリート造の表面に タイルを貼った 昭和初期の典型的オフィスビル。 横浜洋館ライトアップにも 参加しているとか... また夜にでも眺めてみたいと思う。 「本町旭ビル」 →綜通横浜ビル 建築年:1930年(昭和5) 構造:[旧建物]     鉄筋コンクリート造り5階建て、地下1階    [現建物]     鉄骨鉄筋コンクリート造り10階建て、地下2階 設計:不詳(現建物:日建設計) 施工:大林組 所在地:横浜市中区本町1-3 ファザード保存(1995年) 【横浜市認定歴史的建造物】

ハマの洋館めぐり イギリス七番館

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山下公園周辺で見落としてた 洋館のひとつ「 旧英国七番館 」。 いまは「 戸田平和記念館 」 として使われている。 創価学会の第二代会長 戸田城聖 (とだじょうせい) 氏を記念して、 1979年より平和や人権といった展示を 一般にも公開してきているところである。 もともとはイギリの貿易会社 バターフィールド&スワイヤ商会 の日本支社。 関東大震災にも耐えて生き残った 唯一の外国商館でもある。 創建時の門柱がのこる。 建物は外壁を長手と小口を 一列ずつ交互に積んだ あの“ イギリス積み ”で仕上げられている。 玄関には二本の角柱が建てられ、 三連式の ベイウィンドウ (張り出し窓)が、 対になっているのが調和の取れたツクり。 窓はすべて上げ下げ窓なのだという。 窓台を支える 腕木の装飾には草花 の意匠。 目と鼻の先にある「西洋理髪発祥の地」 1989年に建てられた「 ザンギリ 」。 横浜に最初の洋髪店ができたのは 1869年(明治2)のことだそうだ。 小倉虎吉という人が横浜居留地に 初めて西洋理髪床を開業したとか… 「イギリス七番館」 →戸田平和記念館 建築年:1922年(大正11) 構造:鉄筋コンクリート造2階建て 設計:不明 所在地:横浜市中区山下町 【横浜市認定歴史的建造物】

ハマの洋館めぐり インド水塔

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ハマの洋館めぐり ...久々にあっぷします。 “洋館”といっていいのか分かんないけど、 建てられたのは1939年(昭和14)、 在日インド人協会 から寄贈されたこの塔。 山下公園の一角、大桟橋に近い から、 かえってあまり注目されない。 1923年(大正12年)に起きた関東大震災、 当時横浜に在住していたインド人116人が被災。 そのうち28人の人が命をおとしたのだという。 横浜市民は町の復興のなか、 被災したインド出身の人たちにも 救済の手を差し伸べたのだそうだ。 住む場所を失った方々を横浜に再び招くため、 住宅の手当てなどにも力を注いだのである。 塔と呼ぶにはいたって小ぶりなのだが、 丸いドーム状の屋根 が目を引く 寺院建築の様式が取り入れられている。 インドのお国柄を示す美しいフォルム。 実は装飾細部はインド風でもあり、 イスラム風でもあり、 日本風なところもある不思議空間。 単なる水飲み場と言えばそうなのだが、 インド式の建造物は横浜では珍しい存在 、 震災で犠牲となった人への祈り、 そして、インドとヨコハマをつなぐ 歴史的なモニュメントなのである。 床のタイルも色あせていない。 中で見上げると天井部の装飾が大変素晴らしい、 色とりどりのタイルを使用した モザイク模様 。 ここかしこの装飾は歴史を知らずとも、 ぜひ足をとめてほしい逸品なのである。 「インド水塔」 建築年:1939年(昭和14) 構造:鉄筋コンクリート造り平屋 設計:鷲巣昌 所在地:横浜市中区山下町(山下公園内) 【横浜市認定歴史的建造物】

横濱村を感じる場所〜本牧をぶらり

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今ではオシャレな地名のYOKOHAMA。 でも、ペリー率いる黒船来航までは、 半農半漁の小さな村だったそうです。 人々は漁業や海苔の養殖が行われていて、 豊かな自然の恵みとともに暮らしていました。 三渓園のある「 本牧 」の地には岬があって、 本牧の鼻と呼ばれていた断崖あったそうです。 写真は「 たいむスリップよこはま 」より。 海岸沿いの断崖のテッペンにあるのが、 「横浜市本牧臨海公園」に建つ 「 小野光景別邸跡 」の石碑。 小野光景氏は開口直後にこの地に移住してきた、 生糸や茶などの貿易によって財を成しつつも、 急速に発展する横浜の都市運営に携わった人。 別邸は2階建ての洋館で政府要人や、 外国の使節などが招待された場所。 政治や外交の舞台となっていたそうですが、 関東大震災により倒壊したと伝わります。 良質な漁場であった景勝地は、 その後居留外国人達のリゾート地となったとか。 当時の外国人たちは日本人と違って、 景色を落ち着いて眺めるのではなく、 積極的に自然の中へ入り込んで、 まさに自然をエンジョイしていたようです。 こちらは「横浜市 八聖殿 郷土資料館」。 法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物で、 熊本県出身の政治家で逓信・内務大臣を歴任した 安達謙蔵 (1864~1948) が建立したのだそうです。 8人の聖人像が安置されいることから 「 八聖殿 」。 ちなみにその8人とは... 釈迦、孔子、ソクラテス、キリスト、 聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮とか。 「世界の信仰を一小堂裏に集約して、 その偉大なる精神的事業、 広大無辺の徳化を追慕讃仰し、(中略) 現世に処する生ける教養の道場たらしめんとする」 ってのが建立趣意書なんだそうです。 でも、内部はところ狭しと 漁具の並んでいるとか… 開館前で見られなかったのですが。 海岸近くのエリアには、なぜかD51。 D51のテンダー車、 つまり石炭を載せる部分は、 テニスコートへの散水用タンク になってるとか。 そして転車台(・ω・)v 鉄男でもある 虎次郎には大好物 でもあります。 転車台=ターン・テー...