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大坂の伝統野菜たち④ 難波葱

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「 難波葱 発祥の地 」の碑石、 大きなお獅子の舞台のある 難波八阪神社 に立っています。 揮毫は 難波利三 さんの筆、 2020年1月の除幕式は、 挨拶をされたそうです。 かつてはこの辺りは、 難波葱の畑が広がっていて、 1885年に南海なんば駅が 出来たころは一帯の葱畑は、 甲子園球場約10個分、 「 葱の海 」と呼ばれるほど… 《五畿内産物図会》より  壬生菜・京ねぎ 葱の原産地は 中国西部 や シベリアと推定 されていて、 日本では最初に伝わったのは、 実は大阪だったそうでうす。 京都の「 九条葱 」は、 「碑の伝ふる処によれば、  紀伊郡深草村字福稲の地に  稲荷神社の建立せられたる時  においてネギを栽培し始め、  その原種は  浪速より来るものという」、 1909年の『京都府園芸要覧』。 伏見稲荷創建 だとすれば、 711年ということになります。 《両国夕景一ツ目千金》  歌川豊国 鍋にはネギがみえます… 東京の葱は「 千住ネギ 」、 こちらが伝わったのは、 大阪城落城以降 とか… 都市部に葱の産地が多いのは、 ネギが重要な軟弱野菜で あることを示しています。 京の名店・大黒屋さんの「 鴨なんば 」 祖母の好物のひとつですが、 関東では「 鴨南蛮 」と呼びますね。 南蛮は南蛮料理や 異風なる物に通じ、 ネギを使った料理を 南蛮と言ったとか。 ただ 葱のルーツは「なんば」 、 だから上方や京では、 そう呼ぶのかもしれません。 『 安愚楽鍋 』より 仮名垣魯文 著 『 江戸繁盛記 』には、 「 凡そ肉は葱に宜し 」とあり、 すき焼きには葱は必携 ですね。 葱には臭みをあって、 毒消しには有効ですが、 江戸期のハレの献立には、 カボチャとともに葱は、 ほとんど登場させて もらっていません。 「難波葱 発祥の地」のそばに、 「にぎわいばし」 の欄干。 ほど近くにバス停が残っています。 ネギの流通には 「青田師」 という 人たちの活躍がありました。 畑で収穫前のネギを農家との 契約で購入し、職人を連れて収穫、 調整をして小売する制度です。 最近では流通事情で一本ネギが、 栽培の中心になっていますが、 やっぱり葉ネギが美味しい。 賑橋 を越えて葱が町家へと、 運ばれていたのでしょうか。 《 都百景 三条大橋比叡山春霞 》  歌川...

大坂の伝統野菜たち③ 勝間南瓜

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今回は「 勝間南瓜 」 大阪市西成区玉出町にある 生根神社 に「 こつま南瓜塚 」。 江戸期の飢饉に 勝間村 の農民は、 大事に保存していた種を 育て餓えをしのいだそうです。 古くから「こつま南瓜」なる 神事が行われていて、 「 かぼちゃ石 」を撫で、 陽の気の精を頂いていたとか… カボチャとの呼び名は、 ポルトガル人が カンボジア で 作られた野菜を土産として 持ってきたことに由来します。 ポルトガル語では[ abobra ]、 訛って「 ぼうぼら 」と… 九州や東北の一部の地域では、 こう呼ぶそうです。 勝間南瓜のことは 今東光 さんの 『 悪名 』に登場します。 …舞台は大阪・河内のある村で、 夏祭りの日、友達の辰吉と 遊びに行くために女装しようと、 朝吉はこっそり姉のタンスから 着物と帯を盗み出し、 辰吉の姉に着せてもらい、 鏡台の前ので化粧をして もらったときの会話で、 白粉刷毛で首筋を塗られると 朝吉は「わぁ、ひゃっこいな」、 と素頓狂な声を出して叫びます。 顔にも白粉や紅を塗られ、 頭から手拭いで頬かむりして、 小肥りの可愛らしい女が 出来上がります。 「朝ちゃんは、 『 こつまなんきん 』やわ」と 辰吉の兄嫁さんは手を打って 笑います。 勝間南瓜 は熟すと、 褐色となり白い粉が 表面に吹くのです。 夏にしっかり日焼けして、 ニキビ華やかな青年、 化粧すると… 《祐念上人と累の亡魂》  歌川豊国 1813年 「芝居・蒟蒻・芋・蛸・ 南瓜 」 落語 『親子茶屋』 に、 女性たちの好物として 列せられています。 最近はハロウィンの 「 ジャック・オー・ランタン 」、 11月のカボチャ祭😁では、 お化けアイテムですね。 《王子狐火》歌川広景 1859年 大名行列の狐たちは カボチャの鋏箱 … 勝間南瓜はこっちの種かも。 毛槍は トウモロコシ 😁 『百種 怪談妖物双六』  より砂村の怨霊  歌川芳員 1858年 カボチャの提灯の由来譚では、 生前に堕落した生活のために 天国へも地獄へも行けず… 彷徨い続けていると。 『百種 怪談妖物双六』には、 自らの実が提灯代わり?? なぜ日本でもカボチャが お化けと繋がるのか? おそらく当時は新作物と 奇怪をみなして、 悪魔性をはらんだのでは? 《南瓜》 牧野虎雄 ※この...

大坂の伝統野菜たち② 玉造黒門越瓜

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《獣戯画 鼠曳く瓜に乗る猫》  河鍋暁斎 1879年  鼠と瓜は一緒に 描かれることが多いのですが、 暁斎 が描くのは猫をのせた 白瓜 を引いています。 今回紹介するのは、 「玉造黒門越瓜」 。 大坂城の玉造門が黒塗りで、 黒門 と呼んでいたことに因む。 「 越瓜 」と書いて 「 しろうり 」と読みます。 玉造稲荷神社 では境内で 玉造黒門越瓜の栽培が 行われていています。 『 漬物早指南 』より 干し瓜の図 江戸の漬物屋が出版した 『漬物早指南』 に描かれる図、 白色の縦縞があって糟漬けに、 まさに絶品としてして 浪花名産の一つと されていました。 「黒門といえども 色はあおによし  奈良漬にして 味をしろうり」 、 狂歌師・ 鯛屋貞柳 の一首。 天王寺区下寺町の光伝寺に 貞柳の墓所があるそうです。 1836年の『 名物名産略記 』にも、 天満白大根、田辺大根とならび、 「 玉造黒門越瓜 」がみえます。 《蔬菜図鑑》呉春 もうひとつの越瓜が、 「服部しろうり」 です。 酒どころが近く富田の 酒粕を使って 富田漬 として 加工されていました。 1843年の服部村明細帳には、 「富田で造られる粕漬けに  専ら使用される」 と… 《菜蟲譜》 より 伊藤若冲 が描いた《 菜蟲譜 》、 そのラストには白瓜。 前半は野菜や果物、 そしえ後半には昆虫や 爬虫類など… なぜ瓜を最後に もってきたのか? 《瓜鼠図》清・八大山人 実は瓜は子孫繁栄を象徴の おめでたい食べ物とされ、 子だくさんのネズミ が 組み合わされが画題として、 定着していたのです。 《唐瓜図》 伊藤若冲 若冲も瓜への想いは、 あったのかと想像されます。 《婦女人相十品 ビードロ》  喜多川歌麿 瓜実顔 って日本人らしい 美人顔って言われます。 その代表的な浮世絵は、 誰もが知るこの画。 《風流無くて七癖 遠眼鏡》  葛飾北斎 (1801年ごろ) 実は…江戸前期は、 将軍正室は顔が細長く 顎が小さく。 側室は顎のしっかりした 庶民顔だったそうです。 《瓜図鐔》  和泉市久保惣記念美術館 ただ…江戸後期になると、 正室も側室もみな 細長い顔とか… 浮世絵に描かれた 瓜実顔 、 目の細い “美女” はその象徴。 野心を持った連中が 将軍の側室にするた...

大坂の伝統野菜たち① 吹田慈姑

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《五畿内産物図会》より 宮前大根・本庄茄・吹田くわゐ 江戸のことばかり 綴っていたので、 なにわのことも… おおさか東線 「南吹田駅」 レポ で 紹介していたのですが、 改めて… 《摂津名所図会》吹田 吹田慈姑の記述は、 300年前に 貝原益軒 が著した 『 大和本草 』に見られるのが、 最初だと言われています。 食通で知られた 蜀山人 も、 「思い出る 鱧の骨きり すり流し  吹田くわいに天王寺蕪」 という狂歌を残しています。 吹田市のキャラクター  「 すいたん 」 万葉集には慈姑と 思われるものを詠んだ 歌が二首あるなどして、 古くから知られていました。 京都の御所にも毎年献上、 実は吹田の地は江戸期に、 仙洞御所の御料地 でした。 その繋がりもあって、 菊の御紋の大名駕籠を 模した 献上駕籠 に乗せ、 御所に届けられたそうで、 昭和初期まで続いたそうです。 『和漢三才図会』より烏芋・慈姑 慈姑はもともと中国原産と 考えられていましたが、 植物分類学の父と呼ばれた 牧野富太郎  博士により、 「 吹田くわい 」に学名が 名づけられたことで、 中国からの渡来のものと 区別されるように… 実は1935年になってからの ことなんです。 室町時代まではクワイは、 烏芋(クログワイ) のことを 指していましたが… そもそも 慈姑 という字、 中国の明の時代『 本草網目 』、 「くわいは1年で1根で  12子が出来る。その姿が  慈しみ深い( 慈愛 )お母さん 、  ( 姑 )が子供達を  養育する姿に似ている」 ことに由来しているとか… 吹田くわいは「 オモダカ 」が 成長進化したもので、 初夏には白く可憐な 花を咲かせます。 吹田慈姑はひとつの茎から、 雄花と雌花が同時に 咲くのだそうです。 「 すいたん 」の茎にも 白い花 が咲いています。 コロナが収まって、 見に行けるとよいなぁ〜。