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太子霊場めぐりvol.14 片岡山のほとり

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橋本関雪 が描いた 《片岡山のほとり》 、 王寺町地域交流センター で、 2020年6月に複製品がお披露目… その後 達磨寺方丈 でも公開… ただ残念なことに訪れたときには、 展示されていませんでした。 達磨寺の山号は" 片岡山 "、 推古天皇21年の12月1日、 太子が" 片岡山のほとり "に住む 道人を訪ねるべく進んで 居られるところ、 道端に飢えと寒さに息絶え絶えの 人が座って居たと… 飢人と太子との対峙 オリジナルは広島県にある ウッドワン美術館 の所蔵。 奈良県高市郡高取町にある 岡村印刷工業(株) さんが 手掛けられたもの… "和魂漢才"の文人画家 と評された 橋本関雪の28歳の作品でして、 その"ほとり"に遭遇したような… " 画家のたくらみ "を感じさせるとか。 達磨寺の近くに座す" 片岡神社 " 『延喜式』の神名帳に 片岡坐神社 とあり、 王寺町元町の大峯にある「モトミヤ」に 祀られていたと伝わります。 806年(大同元)に租庸調が 納めらていた記録 があり、 成立は奈良時代かと… 神道 を敷設した境内 右方にある朱の祠には、 賢岡大明神 と表されていました。 達磨寺境内にも"片岡"がいくつか… 片岡八郎、片岡春利の墓 片岡家の第17代とされる 片岡八郎利一 は後醍醐天皇の皇子、 大塔宮後良親王の家来 の一人。 大塔宮は八郎の忠義の死によって、 危機を脱することができたとか… 皇紀2600年記念で正五位が贈位 、 忠魂碑とともに。 片岡新助春利 は第27代、 戦国末期の 片岡城主 とか。 ただ不思議のは、 その片岡春利を攻めた 松永久秀の墓 もすぐほとりに。 春利は筒井氏の麾下で、 順慶の妹婿にあたるのです。 「元亀元年三月五日卒」と 刻まれているといわれます… なぜ宿敵の筒井順慶の部下と 同じ寺域に墓があるのか? 松永久秀 の解説板には、 さらにいろいろな説明が 加えられていました。 ラスト  片岡のほとり … 方丈内の展示ケースにあった、 「 冨田渓仙の年賀状 」。 渓仙は 富岡鉄斎 を慕い私淑、 『 御室の桜 』など独得の詩趣ある 清新な画風を展開した人。 達磨寺方丈の襖絵は渓仙の筆 、 明治後期の達磨寺

太子霊場めぐりvol.13 第十九番 達磨寺

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御朱印には 「聖々相見地」 と… 『日本書紀』の推古天皇21年(613)の 「片岡山飢人御慰問」 のことを意味します。 達磨寺HPの 漫画「片岡山飢人伝説」 … こちらを紹介しておきます。 手厚く葬られ後、 人々は 達磨墳 と呼んだ… 王寺達磨寺の起源です。 聖徳太子と達磨大師の出会いから はじまった達磨寺には、 今も本堂の下に 達磨寺3号墳 と よばれる 古墳時代後期の円墳 。 鎌倉時代にその上に お堂が建てられていましたが、 2014年に本堂が建替られたときに、 小さな石室をつくって石塔、 石塔の中には合子が入っていて、 さらに合子には 水晶製の五輪塔 … 本堂は達磨寺3号墳の上に… 千手観音 を中座に、 聖徳太子、達磨大師 が 三尊仏ご一堂 … 巾子冠をかぶり、 笏を手にとる 聖徳太子像 。 銘文から1277年の鎌倉期のもの。 袍の皺部分には彩色が確認でき、 こちらの聖徳太子画像のように かつては鮮やかな 緋色の袍 だったとか… 木造達磨坐像 は室町期のもの、 足利義教 が命じて1430年に 制作させたものと銘文が残ります。 達磨さんて座禅しすぎて手足も 腐ってなくなったというのは俗説。 ダルマは 起上り小法師 をもとに、 群馬県の 高崎の達磨寺 の和尚が 江戸時代に考案したものです。 本堂下には" 問答石 "があります。 こちら 太子石 … 聖徳太子と飢者に身をやつした 達磨大師が出会い、 歌を詠み交わした場所とか。 「しな照るや 片岡山に飯に飢えて  伏せる旅人哀れ親なし」  と聖徳太子。 達磨大師 は 「斑鳩や 富の小川の絶えばこそ  我が大君の御名を忘れめ」 と… こちらが 達磨石 ですが、 聖徳太子と達磨大師の関わりを 示すために据え置いた石の可能性。 本堂下にある達磨寺3号墳の 石室天井石 であったとも… もうひとつ 達磨大師 ゆかりを… 伝説によると達磨大師が携えていた 竹杖を挿したところ、 一夜にして芽が出てきたとか。 達磨大師御杖竹 とも、 毎月タケノコができるとも? 達磨さまこちらでは 御足が健在 でした。

太子霊場めぐりvol.12 聖霊院の愛馬黒駒

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四天王寺 聖霊院 の絵馬には、 愛馬黒駒 が描かれています 太子のお気に入りの馬 黒駒は、 富士山を飛び越えた という 伝説も残されているです。 太子と馬との縁は深く… 穴穂部間人皇女 は、 急に産気づいたそうで、 近くにあった厩(うまや)で 太子を出産したことから厩戸と 名付けられたとされいるのです。 《聖徳太子絵伝》より 太子殿のそばにある厩… 聖徳太子ではありません… 調子丸 さんです。 絵馬にも登場しているのですが、 黒駒の手綱を引く舎人であった人。 『聖徳太子伝暦』 によると、 推古天皇6年(598)に聖徳太子が 諸国から献上された馬の中から 甲斐の黒駒 を選んで、 調子丸に飼育させたのだとか。 また一説では、 調子丸は百済からの渡来人 で、 多くの舎人の中でも 常に太子の側に仕えていたとか… こちら 黒駒 くん 調子丸 さん手綱をひいています… 2019年6月に修復されたもので、 四天王寺大仏師の 松久宗琳 (1926-1992)さんの 手によるものです。 おそらく修復を手掛けたのは、 京都にある 松久宗琳佛所 。 《黒駒太子》日本民藝館蔵  東北地方 室町時代(16世紀) 馬は天高く飛び上がり、 太子を連れて東国へ赴き、 富士山を越えて信濃国まで 至ると3日を経て都へ 帰還したとか… 《太子黒駒登岳図》  四天王寺 甲斐の黒駒の創話は、 飛鳥時代から本格化した ヤマト王権の東国浸透 、 蝦夷文化との衝突に 至った史実が太子信仰に 加わったとみられています。 『上宮聖徳太子補闕記』 によると… 太子が黒駒に乗って、 雲を踏みつけて飛び。 東に富士山を登り 北に高志州を行ってきた、 太子のの行きたい場所であれば、 すべて数日程度で往復できた。 黒駒が太子に逆らうことがあると、 ずっと飲食せず、 懺悔しているようであった。 太子の許しを貰ってから はじめて食べるようになった… 江戸時代には富士山にも 太子堂があったのだそうです。 山梨県富士吉田市新倉の 如来寺 にある 聖徳太子騎馬像 を背負って登り、 8合目の山小屋“太子館”に 祭って法要したのだそうです。 『甲斐国志』 によれば 「富士山7合目、  駒ケ岳という地に小室あり、  聖徳太子並びに銅馬を安置す。  新倉村如来寺兼帯す…」 「空を飛ぶ馬」 の意味は? 聖徳太子の黒駒は、 漢の武帝の天馬のような存