太子霊場めぐりvol.12 聖霊院の愛馬黒駒


四天王寺 聖霊院の絵馬には、
愛馬黒駒が描かれています

太子のお気に入りの馬 黒駒は、
富士山を飛び越えたという
伝説も残されているです。
太子と馬との縁は深く…
穴穂部間人皇女は、
急に産気づいたそうで、
近くにあった厩(うまや)で
太子を出産したことから厩戸と
名付けられたとされいるのです。


《聖徳太子絵伝》より

太子殿のそばにある厩…

聖徳太子ではありません…
調子丸さんです。

絵馬にも登場しているのですが、
黒駒の手綱を引く舎人であった人。
『聖徳太子伝暦』によると、
推古天皇6年(598)に聖徳太子が
諸国から献上された馬の中から
甲斐の黒駒を選んで、
調子丸に飼育させたのだとか。
また一説では、
調子丸は百済からの渡来人で、
多くの舎人の中でも
常に太子の側に仕えていたとか…

こちら黒駒くん

調子丸さん手綱をひいています…

2019年6月に修復されたもので、
四天王寺大仏師の
松久宗琳(1926-1992)さんの
手によるものです。
おそらく修復を手掛けたのは、
京都にある松久宗琳佛所

《黒駒太子》日本民藝館蔵
 東北地方 室町時代(16世紀)

馬は天高く飛び上がり、
太子を連れて東国へ赴き、
富士山を越えて信濃国まで
至ると3日を経て都へ
帰還したとか…

《太子黒駒登岳図》
 四天王寺


甲斐の黒駒の創話は、
飛鳥時代から本格化した
ヤマト王権の東国浸透
蝦夷文化との衝突に
至った史実が太子信仰に
加わったとみられています。

『上宮聖徳太子補闕記』によると…
太子が黒駒に乗って、
雲を踏みつけて飛び。
東に富士山を登り
北に高志州を行ってきた、
太子のの行きたい場所であれば、
すべて数日程度で往復できた。
黒駒が太子に逆らうことがあると、
ずっと飲食せず、
懺悔しているようであった。
太子の許しを貰ってから
はじめて食べるようになった…

江戸時代には富士山にも
太子堂があったのだそうです。
山梨県富士吉田市新倉の
如来寺にある
聖徳太子騎馬像を背負って登り、
8合目の山小屋“太子館”に
祭って法要したのだそうです。
『甲斐国志』によれば
「富士山7合目、
 駒ケ岳という地に小室あり、
 聖徳太子並びに銅馬を安置す。
 新倉村如来寺兼帯す…」

「空を飛ぶ馬」の意味は?
聖徳太子の黒駒は、
漢の武帝の天馬のような存在、
皇帝のような天下の至尊でなければ、
手に入れることのできない宝物。
駿馬を有することは、
天子に相当する身分の象徴
でした。

聖徳太子は皇太子のままで早世。
一族は蘇我氏のために滅ぼされる
ともされているなかで、
太子を思慕する人々は太子死後、
敬慕や同情の気持ちを昇華して、
太子を理想的人物としてだけでなく、
あるべき治世者として
描き出そうとする意図があったかと。
各地に巡行したとの創話の
意味するところと思われます。
駿馬を求めるただけではなく、
地方から奉げられる数百匹の馬から、
すぐ快足の黒駒を見抜いて、
御者として相応しい調子丸を任命。
千里の馬と賢い人材を見抜いた
名伯楽としての一面を伝えます。
聖徳太子武帝と同じような
中央集権を強化した、
有為な統治者としてみたようです。
その後の歴史の場面場面で
有効であったという…

"聖徳太子像"は歴史の産物…
そう言ったらお叱りをうけるやも。

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