太子霊場めぐりvol.5 推古天皇社


大安寺の境内地の東側、
道路を挟んですぐの位置…
"推古天皇社"なるお社。
ご祭神は豊御食炊屋姫尊
欽明天皇の皇女であり、
18歳にて敏達天皇の皇后に。
眉目秀麗な美人だったと
伝えられています。

経歴が記された案内板…
「第32代崇峻天皇崩御の後、
 皇位を巡って、
 さまざまの動きがあって、
 日本における最初の女帝となられ、
 聡明な聖徳太子に摂政を委ねられて、
 政治は国家意識を昂揚し
 理想社会を求める事であった、
「外交の刷新・仏教に依て
 日本民族の思想と生活を改める事等」、
 従って日本の歴史の中でも
 輝かしい時代であった。
」と…

大安寺境内にあった案内板、
「大安寺伽藍古図」には、
一体的な存在として伽藍の中に
座していたようです。
拡大すると…
「経蔵」と「推古天皇」がみえます。

推古天皇と聖徳太⼦との関係、
聖徳太⼦の⺟⽳穂部皇⼥の
姉にあたるので、
太⼦とは叔⺟と甥の関係です。
そして蘇我⾺⼦は推古天皇の
叔⽗にあたるのです。
592年に蘇我⾺⼦が崇峻天皇に
攻め⼊り殺害してしまいます。
皇⼦たちは若く即位させることなく、
⾺⼦の推薦によって即位したのが、
馬子の姪である炊屋姫でした。

『聖徳太子御聖跡の研究』(1944年)
所収の論文などによると、
大安寺縁起の熊凝草創説話には、
「大安寺は、自らの寺の起源を
 聖徳太子に付会させるにあたり、
 他寺の縁起を借用して、
 その主人公を田村皇子に
 おきかえるという工作を行なった」

との意見もあるようです。

実は大和郡山市額田部北町にも、
推古天皇を祀る"推古神社"があり、
本殿は前方後円墳である
推古神社古墳の上に存在します。
飛鳥時代の扉を開いた
偉大な天皇であった推古帝、
前方後円墳を築くことを止め、
方墳を用いたとされる
ので、
"推古神社古墳"にはおられない…

一方で…
宮内庁は聖徳太子御廟所の
叡福寺近くの磯長山田陵を、
"推古天皇陵"と治定しています。
ただ考古学的見地からすると、
遺言で夭折した息子の墓に
合葬の"植山古墳"が推古帝が
埋葬されたと考えられているのです。

ただ天皇陵にふさわしくないとして
改葬されたのが磯長山田陵とされ、
敏達、用明、推古、孝徳の歴代の
天皇陵を集めるたというのも、
蘇我氏の権威の表れとも…
そもそも推古天皇と聖徳太子の
関係については諸説あって、
時代とともに変説してきました。
さまざまな時代でどう位置づけるか、
太子と推古帝との関係には、
その評価に思惑が交叉してきた…

大安寺の推古天皇社は、
如実に示しているのだと思います。

境内には大日如来
境内社:金毘羅権現

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