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赤備えの陣へ 誉田の戦い

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薄田隼人 は豊臣秀頼に仕え、 大坂の陣では侍大将、 だがその前半生は詳らかでない。 名は兼相、隼人正は通称名。 「すすきだはやとのしょう  かねすけ」と読む。 墓地のあるところは、 大きな道から入ると…看板。 最近作られたものと 並んで置かれていました。 こちらが供養塔。 墓地は、1885年(明治18)の建立、 兼相の子孫にあたる 広島藩主の浅野家一族 によるもの。 羽曳野市の有形文化財に 指定されたのが1996年、 浅野家から寄贈されたとか… 無類の酒好きと伝えられだったとか、 大坂冬の陣では、木津川を上る 徳川の軍勢を打ち破り名を挙げたが、 大勝利に酔い側近を引き連れ新町の 色里に入り浸っているすきに、 博労ヶ渕の砦を奪われたとか… 「 橙武者 」と呼ばれたそうです。 『大坂陣山口休庵咄』に、 「だいだいは、なり大きく、  かう類(柑類)の内色  能きものにて候へども、  正月のかざりより外、  何の用にも立ち申さず候。  さて此の如く名付け申し」と。 東高野街道を南にゆくと。 誉田八幡宮 。 境内には「 誉田林古戦場 」の碑。 この地は 戦略上の要地だったため、 南北朝期から室町戦国と たびたびの合戦の舞台に。 日本最古の八幡宮で、 清和源氏をはじめ全国の武士から 武運の神「 弓矢八幡 」として 崇敬を集める神社。 現在の本殿や拝殿は、 豊臣氏によって 再建されたものと伝わります。 再建された護国寺をしのぶ 南大門 、 廃仏毀釈で 寺は取り壊されたとか。 社殿は 片桐且元 が奉行として 尽力したことが棟札で伝わります。 ただ拝殿建造は大坂夏の陣の最中、 内部は未完成に終わっています。 天井が張られていないので 木組がそのままり。 ただ、徳川家によって 最後の仕上げがなされたので、 三ツ葉葵 の定紋がみられます。 宝蔵庫には鳳凰が降り立つ。 誉田別命は、 応神天皇と同一とされる祭神。 「 惠我藻伏崗陵 」 (えがのもふしのおかのみささぎ) 。 誉田八幡宮 秋の祭礼で行われる 応神天皇陵への神輿の渡御では、 この橋を渡ることが重要な所作、 儀礼...

赤備えの陣へ 道明寺の戦い

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真田幸村 ら援軍の到着が 遅れなければ… 後藤又兵衛率 いる先鋒隊が 全滅することもなかった… タラレバ の想いが募る 道明寺合戦 。 時に慶長20(1615)年5月6日 道明寺に着いた 豊臣軍の 後藤又兵衛 は、 幸村らの遅着を知り、 これ以上は待てないと 石川を越えて 東方の国分にある 小松山 へ。 幸村が道明寺入り遅れのワケは、 濃霧のため だと伝わる。 単独軍となってしまった 後藤隊はまさしく孤立無援。 近鉄道明寺駅前の地域情報板には、 「真田丸に道明寺が登場」と踊る。 駅前には天満宮の常夜燈。 永代油料の碑石がそばに。 東高野街道沿いにある 「 道明寺天満宮 」。 もとは 土師氏 の氏神として、 のちに土師氏の子孫で つながりの深い菅原道真を 祭神に加え天満宮となったそうです。 神仏習合で運営されてきたので、 江戸期出版の『河内名所図会』には、 全体が「道明寺」として描かれ、 本堂と社殿が東西に並んで… 道明寺が「 道明尼寺 」、 天満宮で社僧と呼ばれる僧侶が 神前で読経していたようです。 道真がたびたび訪れたとして、 故郷として詩に詠むほど縁。 遺品所蔵の唯一の天満宮 として知られています。 本殿・幣殿・拝殿のある 構造の 権現造り の檜皮葺き。 詳しくはわかりませんが、 江戸時代初期に建てられ、 中ごろに移築とか… 梅鉢 境内には巨大な石を運ぶための ソリの古墳時代の 修羅 (しゅら) 。 天満宮内の三ツ塚古墳の周濠から 出土したものの「 復元修羅 」。 この地は土師氏の領地で、 修羅を使った土木技術も 土師一族のものだろうかと。 早梅が咲いてました。 道をへだてた 「道明寺」 。 真言宗御室派の尼寺。 織田信長 と 三好康長 で争われた 「 石山合戦 」のうち 1575年の「 高屋城の兵乱」で、 寺院の伽藍が荒廃していたから… 大坂夏の陣のころについては、 詳しい記録がありません。 広大な境内に五重の塔、 金堂等をはじめとする 七堂伽藍の大規模なもの… 礎石が当時のものなのか。 寺名の道明寺は 道真の死後に改められたもの、 ...