みやこの国宝への旅② 天橋立図
国宝指定日 1952.03.29 「 紙本墨画淡彩 天橋立図 」 「しほんぼくがたんさい あまのはしたてず」と読む。 天橋立のおなじみの光景と別モノ。 天に昇竜するごとく南から… 観光ポスター で使われる一枚。 2021年はこの光景に まさに天の予告のあった年、 というのは2021年1月9日に ブラタモリで 「天橋立~なぜ人々は 天橋立を目指す?~』。 わずか8日後の 共通テスト 第一日、 共通テスト「地理歴史」に 天橋立の風景が出題。 「ブラタモリのおかげ」とか、 「タモリさんありがとう」などと。 改めて 天橋立図をみると、 あまり馴染みのないアングル… 「日本三景の1つ、丹後天の橋立を 東側から鳥瞰的にとらえた図で、 図中の 智恩寺の多宝塔と成相寺の 伽藍が同時に描かれることから、 制作期が一応明応10年から 永正3年の間とされる。 雪舟が80歳を越して なお現地に歩を運んで、 実景を写したことは驚異である。」 とある 京都国立博物館HP での解説。 国宝なのに下絵 だったという話… よく見ると20枚ほどの 紙が継ぎ合わされています。 シワのよった粗末な紙に 描かれたことがわかったり、 建物を塗った朱色が 乾き切らないうちに折りたたみ… では本画はどこに? 伝来していません。 最晩年の82歳 に当時住んでいた 現在の山口県の周防から 訪ねてきていたのです。 日本海を船で来たでしょうが、 なぜ天橋立?? 海岸線の正確さやポイントの細かさ… この地をくまなく歩いたのでしょう。 かなり細密に描かれたのは町並み、 “府中” と呼ばれる地はかなり詳細に、 かつて律令制で国ごとに置かれた “国府”があった地には、 国分寺なども置かれ、 中世には守護所もあった とか。 ただ◯で囲んだところは、 黒墨があってモザイクをかけたよう… 一色氏の居城 だったともされていて、 多くの寺社や橋の名前は 詳しく書き込まれているのに、 ここだけは" 墨塗り公開 "(T_T) この地は室町時代には相当な数の 寺社と家が建っていたのです。 当時の京の都は 応仁の乱 の後で、 町が無茶苦茶になっていました。 この地を治めていた一色氏は、 風光明媚なこの地に" 小京都 "を 作ろうとしたのかも知れません。 大内教弘像 (山口市・龍福寺)