鎌倉古道 朝夷奈切通を征く

鎌倉七口のうち最も高く
嶮岨(けんそ)といわれる
"朝夷奈切通"へいざ!!

行ったのはハマスタ雨天中止の翌朝、
金沢八景駅から京急バスに乗って、
鎌倉駅へのバスルートなので、
便数は結構ありました。

バス車窓から"鼻欠地蔵"、
金沢区に残る二つの磨崖仏の一つ。
相州(鎌倉)と武州(金沢)の境、
双方の土地争いの仲裁役として
建立されたものだそうですが、
争いが絶えないので
お地蔵さんが見せしめに、
自ら鼻を欠いてしまったと
言い伝えられています。

『江戸名所図会』に、
優しいお顔のお地蔵さんの
絵が残っています。
旅人が二人で、
お地蔵さんに向かって話を
している様子が描かれています。
絵図には鼻缺(はなかけ)地蔵、
昭和19年(1944)に相武隧道が開通、
大船との交通が利便となり、
地形も大きく変わりました。
昔の人たちは、
「地蔵の前」と呼んでいたとか。

バス停を降りると案内板

バス通りから200m

大きなスダジイ

朝夷奈切通への入口には、
いくつかの石地蔵像



上に横たわっているのは、
横浜横須賀道路です。

凝灰質の地層がくっきりと、
地質学的には朝夷奈切通では、
三浦層群池子層と上総層群浦郷層、
水の流れでできた堆積構造。

奥入ると切り立った…まさに"切通"

仁治元年(1240)に鎌倉と
現在の横浜市金沢区にあたら
"六浦津"との重要交通路として、
山稜部を開削した古道。

『吾妻鏡』には仁治2年(1241)に、
幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、
六浦道の工事が行われた記事があり、
自分の乗馬に土石を運ばせて
工事を急がせたともいいます。

六浦は塩の産地だったそうで、
安房・上総・下総等の
関東の地をはじめ、
唐からの物資集散の港でした。

岩肌からも染み出す雨水


このあたりで引き返そうかとも…
滑りにくい靴ではありましたが、
後悔の念…
果たしてハマスタに戻れるのか?

熊野神社は鎌倉の艮(鬼門)の
守りとして祀られたと
伝えられています。

鎌倉の秘境とも…
ふだんでも人影もほぼないとか。
熊野三柱大神 速玉男命、
伊邪那岐命、伊邪那美命の
熊野三社を勧請したことがはじまり。

ただ…
石段もあるという熊野神社への
参拝は叶いませんでした。
ホント遭難するかと思ったので💦
熊野神社の分岐がちょうど峠なのか、
ここから下り道。

明治期には、切通の頂上、
大切通付近には茶屋があったようで、
切通は県道として利用されたとも。
1956年に切通を迂回する現在の
県道204号線が開通すると、
街道としての役目を終えました。






鎌倉市のカラーコーン

鎌倉幕府 初代侍所別当であった
和田義盛の三男は、
"朝夷奈三郎義秀"と呼ばれたとか・
一夜で切り開いたという伝説が生まれ、
"朝夷奈切通"と呼ばれるように
なったと考えられています。


鎌倉口の"梶原太刀洗水"は、
鎌倉五名水にかぞられています。
江戸時代編纂の地誌『新編鎌倉志』
に記された、鎌倉の5つの名湧水は、
銭洗弁財天宇賀福神社の"銭洗水"、
名越切通にある"日蓮乞水"
建長寺の塔頭 正統院の"金龍水"、
そして鎌倉市扇ガ谷にある
浄光明寺の裏手に湧き出る
"不老水"の5つ。

鎌倉方面への水量は半端なく…

なんとか鎌倉側の石碑に
辿り着きました

"三郎の滝"の水量も激しく。

滝の少し手前の左の川向こうの崖、
頼朝の命を受けた梶原景時が、
謀反の疑いのかかった
有力御家人・上総広常を討った後、
血糊のついた太刀を洗ったという
"太刀洗水"が流れ出ています。


かなり降ると"太刀洗川"の
看板がありました。

安藤広重の描いた朝比奈切通し
頼朝の命を受けた梶原景時が、
謀反の疑いのかかった
有力御家人・上総広常を討った後、
血糊のついた太刀を洗ったという
"太刀洗水"が流れ出ています。


かなり降ると"太刀洗川"の
看板がありました。

安藤広重の描いた朝比奈切通し