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大和郡山 豊臣秀長を辿る 郡山城

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大河ドラマで沸く大和郡山へ 近鉄郡山駅は五七桐の幕。 駅前にあるこれ交番です。 城址公園内に立つ郡山城天守台 城の中心に位置する天守台は、 崩落の危険性があり 立入禁止となっていたようです。 天守の存在は、実在していたかも 諸説紛々となっていたのですが、 2014年の礎石発見で、 実在が確認されたのです。 礎石には1m前後の自然石、 礎石が取り外された部分には 礎石を支えた根石がみられ、 石があった位置がわかります。 礎石は列状に並べられていて、 上には土台となる木材が 横方向に置かれ、 その上に柱が立てられたとこと。 豊臣大坂城金箔瓦と 同じ笵(文様の型)を用いた軒丸瓦、 聚楽第に類例のある文様の 軒平瓦などが出土。 瓦の特徴から、 天守礎石は豊臣政権期と 考えらています。 天守は関ヶ原の戦い後に解体。 以後、郡山城では天守は 再建されなかったようです。 郡山城の石垣で特徴的なのが、 転用石材の多用です。 本来は異なる用途の石材を 石垣の構築部材として 転用したもので、 こちらは「伝・羅城門礎石」。 こちらも著名な「逆さ地蔵」。 全高110cm以上あり、 過去の調査で 大永3年 (1523)の銘文を確認。 精緻に仕上げられた仏身や 仏具が観察できます。 仏身が浮き彫りされた面を 下に向けて頭部が 奥に沈むような角度で配石。 他にも、石仏や寺院などの礎石、 五輪塔や宝篋印塔など、 板碑など石塔婆、 石灯籠、石臼などの 雑器類など多種の石材が 含まれています。 いずれも追手東隅櫓で開催の、 「秀長と郡山のあゆみ」展より。 実は… 興福寺の塔頭である多聞院に伝わる 『多聞院日記』には、 天正15年から17年に 普請に用いる石材を集めた 記録が集中しています。 薬師寺での採石を禁じる記録もあり、 城普請に際して周辺から石材を 集めていたことがわかっています。 豊臣期の遺構は、 本丸の天守礎石や土器埋納土坑をはじめ、 追手向(おおてむかい)櫓 常盤(ときわ)曲輪の礎石建物など、 城郭中心部の各所で確認されており、 秀長による築城の実態を今に伝えています。 今後も調査を継続することで、 地中に眠る秀長の足跡が さらに解明されることが期待されます。 現存最古の郡山城図は正保年間の 本多家が城主時代の《和州郡山城図》のみ、 豊臣政権時代の郡山城の様子が 窺える文献は残念ながらあり...