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岡山県北の雄都 津山たび〜つやま自然のふしぎ館

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津山城跡入り口に" つやま自然のふしぎ館 "、 世界各地の動物の実物はく製が、 約20,000点が常設展示されていました。 開館したのは1963年11月のこと、 創設者の 森本慶三 はお向かいの 津山基督教図書館 を建てた人。 津山基督教図書館高等学校夜間部 の 校舎を改築したものだそうで、 津山城内に建てたということもあって、 お城チックな感じの外観になっていた。 生徒増で手狭になり校舎が移転、 その後博物館になったそうです。 こちら館内案内図、3階まであり、 職員室、教室、理科室、集会室など、 約1,500㎡の広さがあるそうですが、 階段差が多くエレベーターも無い。 床にも順路の→があったが、 行き止まりも多くて、 どれを見てどこを見てないのか?? 非常口の表示はたくさんあったが、 迷わずに回れる人はいないと思います。 第二展示室には「 神は天地の主宰 」 「 人は万物の霊長 」との扁額。 1925年(昭和元)図書館設立直後より、 設立構想が建てらたそうで、 森本謙三 、 上原孟 が中心となって、 戦後各方面の学者や研究機関に呼びかけ、 昭和38年11月3日まさに文化の日に 合わせて開館されました。 こちら内耳の模型 " 迷路模型 ”と名付けられています。 蝸牛殻はその名の通り、 蝸牛=かたつむり に似ているから… "人体生理模型"がズラリ… 人間誕生までの膣内ドラマ … 胎児の実物もありました。 ビックリしたの写真を 撮っていませんでしたが、 その横には森本慶三の骨格、 そしてホルマリン漬けになった 臓器が並べられていました。 遺言状に「もし法律で許されるなら、  自分の人体を  ホルマリン液浸にしてほしい。」 岡山大学解剖学教室 で解剖、 ホルマリン液浸の標本に、 岡山県知事の許可を得ての展示です。 第5室はアジアの動物 アジア寒冷地域から亜熱帯地域。 亜熱帯の スマトラトラ と 寒冷地の シベリアトラ が並んでいます。 絶滅危惧種の アムールヒョウ や オランウータンにマレーグマ。 第7室 北米大陸の動物 鹿の仲間では最大の ヘラジカ 牛の仲間 バイソン に寒冷地の ジャコウウシ 🐻出没注意🐻 アラスカヒグマ 第9室 極地(北極・南極)の動物 北極の王者 ホッキョクグマ は、 体長3.2mでまさに圧巻...

岡山県北の雄都 津山たび〜津山基督教図書館

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津山城の近くに立つ建物のうち、 異彩を放っている時計台を 擁している建物は、 基督教文書伝道を目的として 設立された日本唯一の 基督教公共図書館 でした。 建物の設立者である 森本慶三 の記念館 として公開されていました。 イオニア式の壁付柱 を持ち ゲーブル を設けている 南面中央入口部はこのような構え。 ゲーブルとは破風 のことで、 屋根の妻側にある三角形の壁のこと。 彫刻の意義について記念館の展示で、 このように説明されていました。 「愛の行為の審判  新約聖書マタイ傳25章31-46節  人の子イエス・キリスト  栄光の座につくとき  すべての国民をその前に集めて   羊飼が羊(信者 善人)と  やぎ(不信者 悪人)を分けるように、  彼等をより分けて、  羊を右に やぎを左におくであろう (要解)  この時すべての民族は行為の結果に応じて  裁を受けるであろう。」 壁面各所の浮き彫りに特徴。 創設者は 森本慶三 は、 内村鑑三 の門に入った人物。 設立開催式の1926年11月3日、 「世界最大の書としての聖書」と 題された内村鑑三の講演が開かれた。 1875年(明治8)に津山城下の商人 錦屋 に 生まれた 森本慶三 は、 1900年(明治33)に両親に無断で 内村鑑三に入門しようとするが、 最初は断られが両親の許可を得た上で 入門を許されたそうです。 東京帝国大学農家大学 に学び、 内村鑑三が日曜日に自宅で開く 聖書講義に毎週欠かさず出席。 1901年に洗礼を受けて キリスト教に入信しました。 森本家の屋号は錦屋、 伏見町で呉服商を営む 津山藩の御用商人 でした。 先祖の 森本儀太夫 は 加藤清正 の重臣、 弟一族が津山藩主 森忠政 に召されて この地に土着し商人となり、 藩主森家・松平家に仕えました。 9代 森本藤吉 は 津山銀行 頭取や 町会議員を務めた人物でした。 にしきや と染め抜かれた暖簾、 呉服商の店は1909年(明治42)まで 続けられていたそうです。 森本慶三は家業を継ぎ、 津山銀行 の役員をしながら、 岡山聖書研究会 の講義を 毎月続けたそうです。 内村鑑三は日露戦争に反対 し、 非戦を説きましたが、 森本慶三 も信仰の立場から生涯 非戦平和主義 を貫きました。 森本慶三の先妻 梅代が 産後の出血多量のため32歳で逝去、 1913年(大正...

岡山県北の雄都 津山たび〜津山郷土博物館

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もとは1933年(昭和8)建設の、 津山市庁舎だったという 「 津田郷土博物館 」。 津山城跡の南麓に聳える、 地上3階、地下1階建ての 鉄筋コンクリート造と。 津山市が発足したのは、 1929年(昭和4)2月11日、 苫田郡津山町・津山東町・ 西苫田村・二宮村・院庄村、 久米郡福岡村の2町4村で合併。 当初は1874年(明治7)に 小学校の校舎として建てられた 元津山町役場を使っていたそうです。 昭和初期の典型的な官庁建築の 特徴をよく表していて、 質素の中にも役所としての 堂々とした風格を備えています。 内部中央の主階段は大理石仕上げ。 3階中央部の大きな吹抜け空間は 議場として使われていたそうです。 議場の飾り柱 中央正面に車寄を付け、 背面に議場を張り出しています。 腰に花崗岩を貼り 頂部にはスクラッチタイル貼の パラペットを四周に巡らしています。 中央に5層の塔屋を設け 中心性を強調した左右対称の外観。 訪れた日は 「土庄町と可児市と津山」 という 特別展が催されていました。 江戸時代の 小豆島 全体は 長らく幕府の領地だったとか。 津山藩主 松平斉民 の強い働きかけで、 1838年(天保9)に現在の土庄町を 含む島の西部六ヶ村が津山藩領に。 当時の小豆島は水運の拠点、 なおかつ石材や塩、素麺、 豊かな海洋資源な… 獲得を望んだのでしょう。 郷土博物館蔵の 《小豆島絵図》 南を上に描かれており、 中央に赤い線「領分境」の西側が 津山藩の領地 だったそうです。 斉民は11 代将軍 家斉 の実子で、 津山松平家に養子入りしていました。 小豆島の獲得にあたり、 つながりが深かった 大奥を通じて願い出ています。 土庄町長浜の渦江 にあった 塩田の様子を描いた絵図も、 津山郷土博物館の所蔵。 小豆島の良質な塩は、 津山へも吉井川を通じて 届けられた そうです。 津山城のことは、また改めて… 《 江戸一目図屏風 》も所蔵、 鍬形蕙斎 が1809年(文化6)に描いた 江戸の景観図は、 巧みな遠近感と画面構成により、 実際には距離も方位も少しずつ 異なるそれぞれの部分を、 違和感を与えることなく 自然につなぎ合わせています。 玄関車寄せ前に立つ 児島高徳 像、 川上音二郎 ら新劇で評判となり、 高徳の名は広くに知られるように。 戦前は楠正成と同じ忠義な さむらいとして、 ...