横浜金澤をあるく 円通寺客殿

シーサイドラインで金沢八景駅へ

駅近というより眼下に茅葺屋根。
金沢八景権現山公園にある
旧円通寺客殿なのです。
権現山という名の謂れは、
中世以来この地にあった
"権現堂"に因なんだというもの。
麓にあった円通寺境内に
東照宮があることから、
祭神である権現様に由来するとも。

瀬戸神社の社伝によれば、
家康が来遊した時に宿舎とした
建物の用材を使って
東照宮が建立されたそうです。
歴代領主による厚い崇敬を経た後、
明治10年(1877)に、
瀬戸神社へ合祀されました。
瀬戸神社に遺る東照宮伝来の
徳川家康坐像がこれです。
東照宮は万治年間(1658~1661)、
金沢の代官である八木次郎右衛門が、
東照宮を創建したとされます。
東照宮を管理する別当寺として
円通寺もその頃建てられたと
推定されています。

徳川家康は、
金沢の風光明媚な景観を
気に入っていたそうで、
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの
直前のこと、大坂城から
会津上杉征伐へ向かう途中に、
訪れています。
晩年になり駿府に隠居してからも、
江戸へ赴く際は権現山に
立ち寄っていたそうです。

寛文2年(1662)
久世大和守広之が
幕府の若年寄に就任。
久良岐郡5000石が加増され
金沢の主となり、
御供料32石を東照宮に奉納、
翌年に寄進された石灯籠、
「東照宮御寶前」との
刻印がみられます。

享保7年(1722)には、
米倉氏による金沢藩が成立、
その前年 享保年(1721)、
米倉丹守保教が東照宮に
石灯籠を寄進。
これらの石灯籠は、明治10年(1877)に
瀬戸神社に合祀され、
そのまま遷され今でも
瀬戸神社で見れるのです。

円通寺客殿の話に戻ります。
江戸時代後期に東照宮を
詣でる人をもてなすため、
境内に円通寺客殿が建築されもの。

客殿奥は吹抜けになっており、
茅葺屋根の内側や黒く燻された
部材を見ることができます。
面ではなく軸組を用いた、柱と梁、
筋交いで屋根を支える小屋組の
構造がよく分かります。
黒くいぶされた小屋組みと、
新しく葺き替えられたばかりの
コントラストがすばらしい。

客殿内の長押をみると…
三つ葉葵の紋を模った釘隠し。
徳川家家紋 三つ葉葵は、
享保8(1723)年将軍家と一門以外、
その利用が禁じられたものです。
復元ではあるがゆえに、
家康ゆかりの地であったことを
偲ぶことができます。

日輪山円通寺については、
あまり詳しいことは分かっていません。
『新編鎌倉志』(貞享2年・1685)では、
法相宗南都法隆寺の末寺として開山、
『新編武蔵風土記稿』(文政13年・1830)、
天台宗浅草東光院の末寺として開山…
東照宮の別当となってから
天台宗に改宗されたのでしょう。
ただ、県立公文書館には、
円通寺が新田開発を行っていたことを
示す文書などが残されています。

明治新政府による神仏分離政策で、
仏教の排斥運動がおこり、
円通寺は廃寺となりました。
当時の僧は還俗し、
俗名木村芳臣を名乗るように…
円通寺客殿を
"旧木村家住宅主屋"とするのは、
最後の僧侶であった
木村芳臣氏が還俗し、
客殿を住居として
使ったことによります。

歴代当主にわたって庇護してきた
米倉家は享和2年(1802)と
天保14年(1843)の東照宮の再建に
多額の援助が行っていたそうです。。
客殿の茅葺屋根の葺き替えもが
取り仕切って藩領から人を
あつらえていたそうです。

草創当時より大きな間取り変更や
増築は行われてこなかったようで、
江戸時代の客殿としての造りが
保存されている貴重な建物。
2019年からの復元工事は
2022年4月1日に完成、
金沢八景権現山公園開園で、
一般公開されました。

裏手の崖地にみられる"やぐら"
横浜市域の南部に位置、
三浦丘陵の中にあって、
沿岸部から急激に立ち上がった
海岸丘陵性の地形。
刻印がみられます。

享保7年(1722)には、
米倉氏による金沢藩が成立、
その前年 享保年(1721)、
米倉丹守保教が東照宮に
石灯籠を寄進。
これらの石灯籠は、明治10年(1877)に
瀬戸神社に合祀され、
そのまま遷され今でも
瀬戸神社で見れるのです。

円通寺客殿の話に戻ります。
江戸時代後期に東照宮を
詣でる人をもてなすため、
境内に円通寺客殿が建築されもの。

客殿奥は吹抜けになっており、
茅葺屋根の内側や黒く燻された
部材を見ることができます。
面ではなく軸組を用いた、柱と梁、
筋交いで屋根を支える小屋組の
構造がよく分かります。
黒くいぶされた小屋組みと、
新しく葺き替えられたばかりの
コントラストがすばらしい。

客殿内の長押をみると…
三つ葉葵の紋を模った釘隠し。
徳川家家紋 三つ葉葵は、
享保8(1723)年将軍家と一門以外、
その利用が禁じられたものです。
復元ではあるがゆえに、
家康ゆかりの地であったことを
偲ぶことができます。

日輪山円通寺については、
あまり詳しいことは分かっていません。
『新編鎌倉志』(貞享2年・1685)では、
法相宗南都法隆寺の末寺として開山、
『新編武蔵風土記稿』(文政13年・1830)、
天台宗浅草東光院の末寺として開山…
東照宮の別当となってから
天台宗に改宗されたのでしょう。
ただ、県立公文書館には、
円通寺が新田開発を行っていたことを
示す文書などが残されています。

明治新政府による神仏分離政策で、
仏教の排斥運動がおこり、
円通寺は廃寺となりました。
当時の僧は還俗し、
俗名木村芳臣を名乗るように…
円通寺客殿を
"旧木村家住宅主屋"とするのは、
最後の僧侶であった
木村芳臣氏が還俗し、
客殿を住居として
使ったことによります。

歴代当主にわたって庇護してきた
米倉家は享和2年(1802)と
天保14年(1843)の東照宮の再建に
多額の援助が行っていたそうです。。
客殿の茅葺屋根の葺き替えもが
取り仕切って藩領から人を
あつらえていたそうです。

草創当時より大きな間取り変更や
増築は行われてこなかったようで、
江戸時代の客殿としての造りが
保存されている貴重な建物。
2019年からの復元工事は
2022年4月1日に完成、
金沢八景権現山公園開園で、
一般公開されました。

裏手の崖地にみられる"やぐら"
横浜市域の南部に位置、
三浦丘陵の中にあって、
沿岸部から急激に立ち上がった
海岸丘陵性の地形。

"やぐら"とは鎌倉中期から室町中頃、
"都市鎌倉"につくられて横穴式の
お墓や供養堂のことで、
金澤の地が鎌倉の文化圏で
あったことを物語っています。

見終えたあたりで大粒の雨…
ハマスタのゲームは
雨天中止となりました。