柳川を征く〜柳川藩 立花邸 御花


有明海を臨む自然豊かな城下町 柳川、
ひさびさのブログですが…
交流戦 福岡遠征で欲張って、
初めての"柳川" そのど真ん中に
迎賓館として建てられた
鹿鳴館様式の西洋館が健在でした。

豊臣秀吉に仕えた立花宗茂が初代藩主、
関ヶ原の戦いの後に一度は城主の座を
追われたそうですが、
徳川家に認められ再び藩主として
この地に戻ったそうです。
7代鑑載(あきとし)は大友家に
謀反をおこし敗死…
代わって立花城主となったのが、
戸次道雪という人。

道雪には男子がなかったため、
一人娘 誾千代(ぎんちよ)が7歳で城主に。
誾千代が13歳のときに、
大友家家臣の高橋紹運 長男 統虎が娘婿、
のちの立花宗茂と名乗ります。

江戸時代中期5代藩主立花貞俶は、
享保の大飢饉のとき、
幕府に給金を求めるなど
柳川の人々の暮らしに
寄り添う優れた藩主だったとか…
藩主とその家族が生活する場として、
場内にあった屋敷一部が移され、
それが「御花畠」とよばれたました。

1910年(明治43)に立花家の迎賓館
として建てられたのが白亜の西洋館。

1872年(明治5)に柳川城が焼失して以来、
"御花"は立花家の本宅として使用され、
現在の洋館と和館は第14代目当主の
立花寛治(ともはる)が普請されたもの。
こちらは西洋館に掲げられた肖像画。

外観はフレンチ・ルネッサンス様式で、
中央上部のペディメントや
窓・柱頭などの細部意匠にその影響。

玄関ホールには3連アーチ、
イオニア式木柱と凝っています。

出迎える門と門番詰と煉瓦塀も
同じ時期に竣工されたもの。

ドーム屋根が載る門衛所のフォルムは、
よく見るかたちです。

旧福岡県公会堂貴賓館などを手掛けた
福岡県庁技師の三條栄三郎と、
同じく技師を務めた亀田共次郎の
両者が手掛けたと推測されています。

上部はベランダではなく喫烟室。

西洋館のトイレは100年前のもの、
2005年の福岡県西方沖地震では、
西洋館のそこかしこに
被害を受けたそうです。

実はトイレのドアノブは明治のまま、
西洋館のドアノブには基本的に
装飾が施されていないのですが、
ここだけ唯一装飾。
カメラに残っていないのです(T_T)

階段親柱や手摺りは重厚な造り。

上げ下げ窓は分銅式の錘(おもり) による
上下の窓がどちらも自在に動かせる
「両上げ下げ窓」となっています。
窓枠上部に取り付けられた滑車が、
窓の両側とロープで繋がり、
窓が分銅で吊るされたような構造。
エレベーターと同様の仕組です。

西洋館「廣間」


暖炉のタイルにはアイリスの絵。

暖炉の上の鏡は、
身だしなみチェック用ではなく、
部屋を広く見せるための工夫。



伯爵立花家の運営を支えていた
「家政局」があったところには、
雛人形とともに"下げもん"が
吊るされていました。
「家政局」は木造2階建て、
1階に事務所と職員控室、
2階には会議室2部屋、客間1部屋。

柳川地方の雛壇に、必須でかざられる
"下げもん"は旧柳川藩のころ
女子出生に知人親戚から贈られた
着物の端切れで縁起のよい
鶴・亀・兎・宝袋・三番叟・
鶏・這い人形などに、
大毬・小毬を組み合わせたもの。



「家政局」をぬけると「大廣間」
ガラス障子や洋風の照明器具、
屋根を支えるトラス構造など、
最新の洋風技術が使われています。

東から18畳、18畳、12畳の部屋がならび、
部屋の南北に一間幅の畳廊下がつきます。

こちらは「西床」、
床框は拭き漆仕上げ。
床の間の畳「畳床」はサイズ大の特注品。

大広間から北方を望むと「西洋館」
立花邸は近年大規模な補修工事が
行われたのですが、
2005年の福岡県西方沖地震の
はるか以前から煙突のレリーフは、
失われていたのですが、
立花家に残る未整理図面や古写真が、
丹念に調査され復元されたものです。

煙突の破損が大きかったのは
軒蛇腹の部分で、
頂部が重く煉瓦積みの煙突が
建物の端に偏っているため、
接合部に力が集中し、
軒蛇腹付近が破断したとか。
ちなみに西洋館本体は木造ですが、
煙突は煉瓦造となっています。

大廣間より望む「松濤園」



松の緑と、堀割から引いた池の水、
荒々しい岩石がダイナミックに
調和しています。

「大広間」の瓦は、刻印から地元柳川産、
1940年代までは"土葺き"と呼ばれる工法、
屋根全面に敷きつめた土、
瓦をのせて安定させるのが主流。
屋根の板の上に杉皮などの下葺き材を敷き、
その上に粘土をのせ、
粘土の接着力で瓦を固定するやり方。

断熱効果も期待できるのですが、
とにかく重い約1万3千枚の瓦の下に、
大量の土がありました。
今回の葺き替えは葺き土を使わない
空葺きが採用され屋根を軽量化して、
耐震性を高めたそうです。
耐久性があり、かつ明治期の瓦と
なじむ色味に調整できる瓦を探したとか、
愛知県三河地方の三州瓦で葺かれました。

大廣間の長押に並べられた"金箔押桃形兜"
西洋甲冑の影響…桃の形を思わせる。
安土桃山時代に立花家が一隊全員に
揃って着用させたと伝わり、
現在も200頭以上が残っています。

ティーセットを手にする婦人は、
伯爵令嬢 立花文子。
立花文子は1910年(明治43年)、
父は立花家15代当主 鑑徳、
母は田安徳川家9代当主 達孝の娘 艶子。

姉・惇子が夭折し、
文子は伯爵立花家の跡取りに。
伯爵令嬢でありながら、
お茶やお花の稽古よりも、
テニスやスキーを楽しみ、
父と一緒に猟に出かける活発な
娘に育ったそうです。

東京での披露宴後、
郷里柳川で披露宴が催されました。
立花家の先祖を祀った三柱神社で
結婚の報告をした後、親戚へのお披露目。
翌日には立花邸のテニスコートで、
地元の人々を招待しての披露宴。
さらに翌日には、
旧柳川藩の領内だった町村の招待で、
盛大な歓迎を受けました。

終戦後、夫 和雄は帝室林野局を退職、
家族は柳川へ帰郷します。
伯爵立花家はその頃、
民主化政策の農地改革と財産税で
苦境に立たされていました。

「立花伯爵家のディナーセット」
立花家16代として家督を相続した和雄には、
相続税も重くのしかかってきました。
たくさんの財産を失いましたが、
残された土地と先祖から受け継いだ
道具類を守るため、文子と和雄は、
柳川の立花邸を利用して料亭旅館を開業。

立花家史料館にはいくつかの
コレクションが遺されました。

賀茂人形
京都上賀茂神社の雑掌の
高橋忠重という人が余材を利用して
作り出したのが始まりとか…
立花家には243体という
大量の賀茂人形群が遺されました。

七福神など吉祥の図柄が多く、
市井の衣裳風俗や演劇を主題で多彩、
錘を仕込んだ時起き上がり仕様のものも。






「柳川藩主立花邸 御花」
 福岡県柳川市新外町1
 西鉄福岡から西鉄柳川 特急48分
 西鉄柳川よりバス15分、川下り70分

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