とこなめにきたにゃん伍 チムニーのある空
“日本六古窯”のひとつ常滑、
あと五つは
瀬戸・信楽・越前・丹波・備前。
常滑焼において、焼物は「用」をなす生活品、
「美」としての作品という
意味合いが求められるようになったのは、
ここつい最近のこと。
常滑繁栄のシンボルである
レンガの窯と煙突、
今ではその役目を終えて…
その昔「常滑のすずめは黒かった」とか、
煙突の煙でみんな真っ黒で、
となりの町まで行った子どもたちが、
黒くないすずめをみてびっくりしたそうだ。
「やきもの散歩道」のスタート地点には、
陶磁器会館のポストには猫の配達人。
チムニー(煙突)のテッペンには木が…
歴史の刻みはここに花を咲かせるのか?
明治になって西欧の技術が導入されて、
陶管、焼酎瓶、煉瓦タイル、衛生陶器といった
「業」としての発展してきた常滑焼。
日本の近代化を支える場所であったのです。
かつて常滑船と呼ばれる海運が、
その発展を支えていました。
いまは常滑から臨む海原からは
空の道が開かれているのです。
作るのは自分たちが使うためではなく、
生活の上で稼ぎを得るためのもの。
業から生まれた産地の特色は、
掟の伝承というよりも、ノウハウが優先され、
その技術が次の世代に伝えられたそうである。
《ねじれる》藤田徳太
それでも、
「土捏ねは弟子がやるもの」という、
決まり事はいくつかあったようではあるのだが…
「芸」としての光を浴びるようになってきて、
作陶の熱が高りつつある。
陶芸道場とともに、
名古屋芸大の工房なんかもあった。
チムニーはいまはモニュメント…
なかには窯を使っての
パン工房なんて変身も遂げていた。
長く常滑を支えてきたチムニーたちは、
今は鉄の枠に支えられていた。
こちらは登窯広場展示工房館にある窯。
1926年ごろに作られ、
1980年まで現役だったそうだ。
当初の燃料は石炭だったが、
当初の燃料は石炭だったが、
1950年代からは重油にとって変わった。
窯の正面に入り口が2つあるから
「両面焚倒焔式角窯」という名。
「両面焚倒焔式角窯」という名。
(りょうめんだきとうえんしきかくがま)
工房の前には思い思いの陶像が…
これは毘沙門にゃん??
愛嬌のある奴もいた。
ゼニガメならぬ銭蛙もおったわ。
スケッチ画は
【煙突のある陶都(まち)】より
杉江南峰 画
【煙突のある陶都(まち)】より
杉江南峰 画