浦賀の湊てくてくvol.3 西叶神社
西浦賀の鎮守に西叶神社は、
東と区別のためそう呼んでいますが、
本来は叶神社が正式名称です。
「平家物語」に登場の文覚上人が、
源氏再興を願い房総半島の
鹿野(かのう)山に修行し、
もし自分の大きな願いが叶えられるなら、
よい土地を選び神社を建てると誓いました。
養和元年(1181)に頼朝ゆかりの
千葉 鹿野山の対岸である
西浦賀の地が選ばれ、
石清水八幡を勧請しました。
文覚上人は鳥羽天皇 皇女に仕える
北面の武士でしたが、
出家ののち諸国霊山を修行う、
後白河法皇への荘園寄進強要され、
平氏嫌いであったことが、
源氏挙兵へのキッカケとも伝わります。
現在の社殿は天保13年(1842)再建、
社殿の彫刻はいまの千葉県 安房国の
後藤利兵衛の若い頃の作で、
その後鎌倉幕府の彫刻師として
雇われた人だそうです。
拝殿向拝の格天井には、二十八態の龍、
一つとして同じ構図ではありません。
その龍の間に日本に未渡来であった
花鳥たちが華やかさを添えていました。
拝殿中備のと左右側面の海老虹梁上の
合わせて五態の龍は迫力があり、
側面前左右の肘木には
「枇杷(びわ)に木兎(みみずく)」
拝殿向拝正面の肘木左右に「笹と雀」
左右側面にも装飾蛙股
社殿右手に立つ"昭洞香山君碑"、
嘉永6年(1853)のペリー来航のとき、
中心となって交渉にあたった
浦賀奉行所 与力の香山栄左衛門は、
幕府責任者との交渉を望みに対し、
自らを「浦賀奉行である」と
偽り交渉にあたったそうです。
アメリカ側から信頼された香山は、
無事に親書受理が終わると、
黒船の中で歓待を受けたとか…
親交を深めすぎたことで、
周りの反感を買ってしまったとか。
浦賀には「ペリー」を
冠した看板が多く叶神社の境内地にも
ペリー歯科なるものあり…
ただ…"ペリー上陸記念碑"が立つのは、
浦賀ではなく横須賀市久里浜なのです。
浦賀の湊は周囲は山に囲まれていて、
船を監視するのにも都合の良い地。
江戸の防衛拠点ではありましたが、
ペリー記念館へは浦賀駅ではなく、
京急久里浜駅からバス…
はじめはペリーの足跡を訪ねるつもりが、
2つの叶神社参りとなりました。